きのうの記事で、1624年にいまの長崎県で生まれた中国の英雄・鄭成功について書いた。
そしてチョット前に「京都」の由来を紹介した。
昔の中国では、臣下が皇帝の名前にある文字(漢字)を使うことは、至高の存在への「侮辱」と考えられ禁止されていた。
このタブーを犯した人間は最悪の場合、処刑される。
そんなルールを避諱(ひき)という。
この避諱の考え方にしたがって西晋の時代(265年 – 316年)、司馬師の「師」が使用禁止になり、皇帝の住む都を意味する「京師(けいし)」が「京都」と言い換えられるようになる。
それが京都の始まりだ。
鄭成功と避諱が出ていたから、今回は昔の中国人が考えた「最大級の名誉」を紹介しよう。
この薬のパッケージにある「京都」とは、清の都だった北京を指す。
中国人の父(鄭芝龍)と日本人の母(田川マツ)との間に生まれた「鄭成功」は、日本人名を田川福松という。
江戸時代の日本では『国姓爺』でブレイクした。
1644年に明が異民族の国・清に滅ぼされると、明王朝に仕えていた鄭成功は、「やられたらやり返す!」と清を滅ぼして、明を再興させることに自分の人生をかけた。
明が滅亡した後、鄭成功ら遺臣は、皇帝一族の生き残りである朱聿鍵(しゅ いつけん)を隆武(りゅうぶ)帝と呼び、新しい主君に忠誠を誓う。
故国となった明のため、そして自分のために全力で戦い続ける鄭成功を気に入った隆武帝は、彼に最大級の名誉を与えることにした。
1368年に朱元璋(げんしょう)によって建国された明は、初代皇帝の姓である「朱」が国姓(こくせい)となっている。
亡命政権でおそらく金の無かった朱聿鍵は、代わりにこの国姓をほうびとして考えたのだろう。
皇帝の名前は使用禁止で、処刑すらあり得る。
そんな中国人的発想の避諱(ひき)のルールからすれば、皇帝がその名を与えることは最大級の感謝を示すことになり、臣下にとっては最上級の名誉となる。
でも、明の歴代皇帝と同じ姓を名乗ることは、忠臣である鄭成功には恐れ多すぎた。
戦前に比べれば天皇との距離は縮まったとはいえ、いまの日本でも、天皇陛下から同じ名前をいただいたら、国民としては名誉が重すぎて喜べない。
それで彼は国姓を授かっていた後も「朱成功」と名乗ることはなく、ずっと鄭の姓を使っていた。
でも周りの人たちからは、皇帝から国姓を賜った翁(偉大な人物)ということで「国姓爺(こくせんや)」と呼ばれるようになる。
これで鄭成功が清を追い出して明を再興し、隆武帝を真の皇帝にさせることができたら、現代の中国ではきっとジャンヌ・ダルクのような救国の英雄になっていた。
でも鄭成功は夢の途中で亡くなり、抵抗勢力も降伏して中国は清のものになる。
鄭成功
明を再興させるために鄭成功は日本に援軍を求めたが、江戸幕府から拒否られてしまう。
当時の日本としては、清と全面対決するわけにはいかないから、これは仕方ない。
でも代わりに(なるか知らんけど)、鄭成功のドラマチックな人生に着想を得て、近松門左衛門が人形浄瑠璃の『国性爺合戦』という作品をつくった。
それが歌舞伎で演じられると大人気になって、ロングラン(17ヶ月続演)を打ち立てる。
*史実の国姓爺ではなくて、作品名は「国性爺」とちょっと変えてある。
『国性爺合戦』のメインキャラは、鄭成功を元ネタにした架空の人物・和藤内(わとうない)。
この名前は「和(日本)でも藤(唐=中国)でも内(ない)」という意味で、江戸時代の日本人の遊び心が込められている。
和藤内(=国性爺)が明のために大活躍し、敵を倒してついに明朝を復興させるというハッピーエンドに江戸時代の庶民は熱狂した。
でも、支援要請を断られた鄭成功がこれを見たら、喜ぶかどうかは和藤内(わからない)。
近松門左衛門の人形浄瑠璃もこんな感じだったのでは?
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