1076年の2月14日、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はローマ教皇グレゴリウス7世から、とんでもないバレンタイン・プレゼントをもらってしまった。
それは破門。
それまで皇帝と教皇が権力争いをしていて、それが頂点に達したところで、教皇が一撃必殺の奥義「破門」をくり出す。
教皇から破門を宣言された人間は、基本的に周囲の人たちと交流することができなくなる。
これはつまり、社会的に追放されることを意味するのだ。
*破門は英語で「excommunication」と書く。
コミュニケーションから、外へ追い出される(ex)ってこと。
神聖ローマ皇帝が破門されると、具体的にどうなってしまうのか?
臣従していた諸侯たちが離反するから、統治にとってこれは致命的。
グレゴリウス7世の破門をうけ、神聖ローマ帝国内の諸侯たちは、1年以内に破門が解除されないかぎり、ハインリヒ4世を認めないことを誓った。
ハインリヒ4世(Henry)は諸侯のさらなる反乱(rebellion)を恐れ、どうしても破門を解かなければならないと考えた。
they swore an oath not to recognize Henry unless the ban was lifted within a year. Fearing further rebellion among the German aristocracy, Henry felt he had to get rid of his excommunication.
諸侯たちはこの期限が切れたら、新しい王を選ぶとハインリヒ4世を脅す。
彼は完全に詰んだ。
教皇グレゴリウス7世に許しを得て、破門を解除してもらわないと、下手したら命まで危険にさらされてしまう。
彼は許しを乞うための使節を派遣したが、教皇に面会を拒否された。
こうなったら、直接会って謝罪するしかない。
ハインリヒと妻と子どもは厳寒の冬の中、命がけでアルプス山脈を越え、1077年1月に教皇のいるカノッサ城に到着する。
しかし、またも教皇に面会を拒否されたから、ハインリヒ家族は城門の前で待つしかなかった。
城の前で待つハインリヒ4世
ハインリヒ4世は修道士の粗末な服を着て、吹雪が吹き荒れる中で素足になり、城門の前で3日間も断食をし、膝をついて祈った。
そして、やっと面会の許可が下り、ハインリヒは城の中で教皇の前でひざまずくと、教皇はこのあわれな罪人を許し、破門を解除した。
この出来事を日本語では「カノッサの屈辱」、英語では「Road to Canossa(カノッサへの道)」と言う。
ヨーロッパでは、強者に強制されて屈服し、謝罪することを「カノッサの屈辱」と表現することがあるらしい。
この話には続きがある。
グレゴリウス7世とハインリヒ4世は再び対立し、1080年に教皇はまた破門を宣言する。
しかし、今度は、この時まで力をつけてきたハインリヒのターン。
前回と違って諸侯はハインリヒを支持し、ハインリヒは逆に教皇の廃位を宣言させた。
そして、彼は軍を率いてローマに乗り込み、新しい教皇を誕生させ、グレゴリウス7世はローマから逃げ出した。
究極奥義を短期間で何度も使うのはチート行為だ。
そんなことをしたら、周囲からの信頼を失い、自分の身を滅ぼすことにつながる。
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