みんな大好き中国の古典「易経」には、こんな言葉がある。
「聖人南面而聴天下、嚮明而治」
*聖人南面して天下を聴き、明にむかいて治む
「明治」はこの言葉から生まれた。
そして今年2018年はその150周年になる。
そんなわけで日本政府は、改めて明治をふり返って将来につなげていくために、いろいろなイベントをしてきた。
今回はそれに乗っかって、「明治の栄光と苦悩」を書いていこうと思う。
明治の栄光といえば、なんといっても日露戦争(1904~05)の勝利っすね。
これは満州と朝鮮半島をめぐる戦い。
1905年5月、日本海海戦でバルチック艦隊を破ってこの戦争の勝利を決定づける。
そして9月に、アメリカでポーツマス条約に調印した。
日本海海戦での日本の勝利は完璧の一言。
当時、世界中がこれに驚いた。
たとえばイギリスの海軍研究家ウィルソンはこう言う。
なんと偉大な勝利であろう。自分は陸戦においても海戦においても歴史上このような完全な勝利というものをみたことがない
「坂の上の雲 (司馬遼太郎)」
日露戦争の勝利に、日本中がお祭り状態。
ロシアと講和条約を結ぶため、アメリカのポーツマスへ向かう小村寿太郎に、国民は現実離れした期待をかけていた。
日本は「戦勝国」の立場だから、ロシアから30億円や50億円の賠償金をもらえると思いこむ。
当時の50億円を現在の価値に換算すると、どのぐらいの金額になるのか見当もつかない。
とにかく浮かれ気分の国民は万歳をして、小村寿太郎をアメリカへ送り出す。
でも日本政府はわかっていた。
「そんなん絶対ムリ!」と。
日本は何とかロシアに勝ったけど、賠償金を取れるほど強い立場ではなかったのだ。
だから小村寿太郎が大金を持って日本に帰ってくることはない。
いまは「万歳!」と言ってくれる国民は、小村が帰国したときには「馬鹿野郎!」に変わっている。
政府の人間はそのことを知っていた。
だから小村は、見送りに来た首相の桂太郎に「新橋駅頭の人気は、帰るときはまるで反対になっているでしょう」と話したという。
このとき井上馨は涙を流して、「君はじつに気の毒な境遇にたった。いままでの名誉も今度でだいなしになるかもしれない」と語ったとか。
ちなみに伊藤博文は、「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と小村に話している。
国民の万歳を聞いたり笑顔を見たりするたびに、小村寿太郎の苦悩は深まったはず。
でも奇跡は起きる。
10億円ではあるけれど、ロシアが賠償金の支払いを認めたのだった。
という展開はマンガやアニメのみ。
やっぱりロシアからは1円の賠償金もとることはできなかった。
この条約を結んだ夜、小村はホテルの部屋で泣いていた。
小村は賠償金ゼロで日本に帰ってくる。
そこには狂気に満ちた民衆が待っていた。
新橋駅で散々に罵声を浴びせられて泣き崩れた小村を、出迎えた首相の桂と海相の山本権兵衛は両脇を挟むようして歩き、爆弾でも投げつけられたら共倒れの覚悟で総理官邸まで彼を護衛している。
勝手に期待した国民は勝手に裏切られた(と感じる)。
激怒し人たちは東京の日比谷公園に集まって、ポーツマス条約に反対する国民集会を開こうとする。
そして民衆は暴徒と化す。
「日比谷焼き討ち事件」はこうしてはじまった。
東京は無政府状態におちいり、政府は戒厳令を発令する。
この暴動によって、17人の死者と2000人の負傷者が出た。
人々の期待にマスコミや政治家のデマ情報が重なって、こんな暴動が発生してしまった。
平成の日本人が明治に学ぶとしたら、日本海海戦の勝利より、小村寿太郎の涙や苦悩のほうにあると思う。
日比谷公園に集まった民衆
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