【手の平返し】戦前/戦後で激変した楠木正成の評価

 

「GACKT 出陣」ならワクワク感があっていいのだけど、日本の歴史にとって「学徒出陣」は大きな悲劇だった。
先日の10月21日は、太平洋戦争中の1943年に、東京で男子学生約2万5000人が集められ、学徒出陣の壮行会が行われた日。
高等教育を受けて、豊かな日本国の未来を築くはずだった多くの人財が戦場で散ってしまった。
正確な数字は不明だが、学徒出陣で10万人の若者が入隊したという説もある。

この10月21日の壮行会で、当時の首相であった東条英機は学生たちに向かってこう語った。

「仇(あだ)なす敵を撃滅をして皇運を扶翼(ふよく)し奉るの日は今日(こんにち)来たのであります」

こんな軍国主義の風潮によって、思わぬ“事故”に巻き込まれてしまったのが楠木正成(くすのき まさしげ)。
戦前は「逆賊」として悪者扱いされていた足利尊氏が、戦後、「英雄」と評価が爆上げした現象の反対で、正成のイメージは地に落ちた。

 

楠木正成

 

楠木正成は南北朝時代に活躍した武将で、後醍醐天皇に仕えていた。
当時、足利尊氏など多くの武将が後醍醐天皇の敵となったが、正成はそんな賊どもとは違って、天皇への忠誠をつらぬき、最期は「湊川の戦い」で足利軍に敗北し、自害した。
彼の魅力は国を超え、知人のインド人は「素晴らしい戦士だ」と大絶賛する。

南北朝時代の武将・楠木正成に、インド人が感動したワケ

 

とても強く、忠誠心の高い楠木正成は日本人の心に“刺さる”。
だから、彼は数百年前から高い評価を受けてきた。
室町時代に成立した『太平記』では、この書物は足利尊氏寄りなのに、正成を「智・仁・勇の三徳を兼ね備え、古今これほど偉大な死に様をした者はいない」と称賛している。

江戸時代になって、「忠義」が特に重要視されるようになると、正成の「忠臣」としての面がクローズアップされ、彼は「日本三忠臣」のひとりに選ばれた。
ちなみに、これが残りの二人だ。

・平重盛(たいら の しげもり)

彼は平安時代末期の武将で、平清盛の長男であり、後白河法皇の忠臣だった。
1160年の平治の乱では、重盛は源氏との戦いをまえに、「年号は平治、都は平安、我らは平氏、三つ同じ(平)だ、ならば敵を平らげよう」とキャッチーなフレーズを使って味方の戦意を高めた。
父と後白河法皇が対立したときにはかなり苦労する。

・万里小路 藤房(までのこうじ ふじふさ)

鎌倉時代末から南北朝時代にかけての貴族(公卿)。
藤房は後醍醐天皇の側近として、鎌倉幕府を倒すため、天皇が苦境に立たされたときも裏切らず、最後まで天皇を支えながら戦った。
だから、楠木正成に近い。

 

平重盛

 

万里小路藤房

 

楠木正成については、戦前から「日本最高レベルの忠臣」というイメージがあった。
そのせいで、満州事変がおきて軍国主義の世の中になると、政府は国や天皇やのために命を捧げて戦う兵士を育てるために、彼を利用するようになる。
日本軍の価値観からしたら、「七生報国」という考え方はまさに理想的で魅力的。
正成が自害する直前、弟の正季(まさすえ)がこう言った。

「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」

この言葉から、七度(または何度)生まれ変わっても国の敵を倒し、国に報(むく)いるという意味の「七生報国」が生まれる。(皇国史観
戦前の学校教育では、教師がこの言葉を使って「わが国民は、皆、正成のような真心を持って、大いに御国(おくに)のためにつくさねばならぬ」と子どもたちに教えていた。
後醍醐天皇への忠義をつらぬいた楠木正成は、皇国史観においては、国のために命を捧げることを正当化する道具として使われる。
こんな軍国主義を背景にして、「仇(あだ)なす敵を撃滅をして皇運を扶翼(ふよく)し奉るの日は〜」と東条英機が言って、多くの青年を戦場へ送り出した。

 

皇居外苑にある楠木正成像

 

日本がアメリカに敗れ、戦後になると、日本人の価値観は逆転する。
すると、手の平返しがはじまり、楠木正成の評価や見方も激変し、「悪(あ)しき戦前の象徴」として彼は嫌われ、その存在は消し去られた。

産経新聞(2019/2/8)

忠君ぶりをたたえられた正成に関する教科書の記述は戦後、軍国主義の肯定につながるとの理由で、文部省通達によって墨で塗りつぶされた。

序章(5)「タブー」を超えて 戦後74年、人々の心から消えず

 

現代ではどうか?
戦前戦中の軍国主義や、それを極端に忌避する戦後の風潮が薄れたことで、楠木正成には「忠臣」のイメージが強くなり、人気も復活したようだ。

歴史雑誌『歴史街道』が「現代の日本人が考える忠臣は誰か?」というアンケートを行ったところ、こんな結果が判明。

1位:大石良雄(内蔵助)
2位:楠木正成
3位:豊臣秀吉
4位:石田三成
5位:弁慶

ソース:「忠臣」と聞いて思い浮かぶ日本史上の人物は?ランキング

 

楠木正成の評価は、時代と日本人の価値観の移り変わりによって、ジェットスターみたいに、上下に大きく変化した。
江戸時代から戦前までは「偉大な忠臣」で、戦後には「軍国主義を思い起こさせる」と存在を抹殺され、現代では一周回って「忠臣」となったようだ。
天皇に忠義をつらぬき、まっすぐに生きた彼の名誉は回復された。
この見方はもう変わらないだろう。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。