ほんじつ1月24日は、1842年に江戸幕府が株仲間解散令を出した日。
このころ、商人の組合である株仲間が商品価格を高く設定していて、庶民は苦しんでいた。
それで、幕府は株仲間をぶっ壊し、新しい商人が業界へ参入することができるようになれば、物価を引き下げられると考えた。
この出来事は貨幣経済の浸透ぶりを示している。
同じころ、隣国の朝鮮では、19世紀前半に実学者の鄭 東愈(てい とうゆ)が、朝鮮の技術力の低さを嘆いていた。
彼が記した『晝永編』(ちゅうえいへん)によると、当時の朝鮮には針と羊と車の3つが無かったという。
朝鮮の針は質が悪く、服に穴が開いてしまうから、針を中国から買わないと、衣すら縫えないという状態。
また、木を曲げる技術がなかったため、車や樽(たる)を作ることができなかった。
樽が無くて、液体を遠くに運べなかったから、江戸時代の経済を支えた樽廻船(たるかいせん)みたいなものはあるわけない。
朝鮮の白磁は有名で、人びとは白い服を着ていた。
この理由も、江戸時代の日本にあった顔料が朝鮮には無く、陶磁器を赤く塗ったり、衣服をさまざまな色で染めるができなかったから。
ただし、上流階級の人たちは中国から色のある布を買っていたから、カラフルな服を着ることができたらしい。
上記のことは、鄭 東愈が記した『晝永編(ちゅうえいへん)』に書いてある。
筑波大学名誉教授で歴史学者の古田 博司氏は、朝鮮時代には、庶民が利用する商店がなかったと指摘する。
数日に1回、農民や漁民たちが品物を持ちよって市場を開くから、民衆はそこへ行って買い物をしていた。
といっても、朝鮮時代には貨幣経済が日本ほど発達していなかったから、「買う」というよりは、物々交換が主流だったと思われる。
朝鮮の財政規模は、江戸幕府の一割にもならなかったという。
日本では、15世紀には貨幣経済が浸透していた。
来日した朝鮮通信使がその様子を見て、遠距離の旅をするにも銭貨を持つだけでよく、穀物を携帯しなくてよいと政府に報告している。
荷物の運搬については、朝鮮には樽が無かったから、重い甕(かめ)などに商品を入れないといけなかったし、車が無かったから背負って運ぶ必要があった。
これはかなりの重労働&不効率だ。
日本では17世紀になると、江戸幕府から奢侈(しゃし)禁止令、いわゆる「ぜい沢禁止令」が出され、農民は紫や紅梅色(紫色がかったピンク)の服を着ることが禁止された。
農民がぜい沢を抑えないといけないというのは、当時の朝鮮の民衆には、夢の世界の出来事のように聞こえたのでは?
第11次朝鮮通信使(1763年~1764年)の一員として、日本を訪れた金仁謙(キム・インギョム)は「日東壮遊歌」を記した。
その中で、彼は大阪の発展ぶりを見て、「その賑わいのほどは我が国の鍾絽の万倍も上である」と舌を巻く。
*鍾絽(チョンノ)は首都ソウルの繁華街。
彼は名古屋を見て、「朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べればさびしい限りである」と嘆く。
そして、江戸では「楼閣屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の整然たる様、橋や船にいたるまで、大坂城、西京(京都)より三倍は勝って見える」と驚嘆し、絶賛した。
時が流れて19世紀後半、西洋列強が進出してくると、日本は明治維新で国内改革を積極的に進め、近代国家へ生まれ変わったことで、時代の変化に対応することができた。
一方、韓国はこれに失敗し、1910年には日本に併合されてしまう。
その残酷な運命の違いは、それまでの日韓の経済や技術力の差にも原因があったはずだ。
朝鮮は錯覚と精神勝利の国でした。朝鮮と日本との格差は、すでに1543年に種子島に鉄砲が伝わった瞬間から広がり始め、文禄·慶長の役の際には比較にならないほどでした。文禄·慶長の役の後、朝鮮通信使が定期的に日本を訪問し、日本の発展の様子を目で確認したにもかかわらず、朝鮮は変化を拒否しました。その代わり、日本が中華の徳化を受けなかった蛮族だと哀れに思い、小中華になった朝鮮の文化を伝えるという幻想の中で暮らしました。1764年に日本を訪問した朝鮮通信使の金仁謙(キム·インギョム)は「禽獣のような人間が2千年もこのように豊かに暮らしていたとは悔しくて無念だ」と言いました。日本の発展した姿を見て、母国の朝鮮を発展させるつもりはなく、こんなことを考えたなんて信じられません。こんな国が滅びるのは必然でした。
>日本が中華の徳化を受けなかった蛮族だと哀れに思い、小中華になった朝鮮の文化を伝えるという幻想の中で暮らしました。
当時の朝鮮人はこんな世界観の中に生きていたと思います。
日本人が漢字ではなく、仮名を使うことを見て文明が低いと考えていました。
この考え方の違いは決定的です。