戦後の日本で無くなった「ふけい」は2つある。
まず、天皇に対する無礼な行為を犯罪行為と見なす不敬罪は、戦後直後の1947年(昭和22年)に廃止された。また、昭和時代に使われていた「父兄」という言葉は、母親を軽視しているといった批判をうけて、現在では「保護者」と言い換えられるようになった。
ここで取り上げたいのは前者。
戦後になっても、社会には「不敬」の空気が強く残っていたことは、1948年1月21日に国会で起きた「カニの横ばい拒否事件」でわかる。
当時、国会議員が天皇に拝謁する際、「陛下にお尻を向けることは許されない非礼だ」ということで、議員は昭和天皇に拝謁した後、背中を見せず、頭を天皇に向けたまま横に移動していた。
この慣習に対して、参議院副議長だった松本治一郎が「カニの横ばいのようなことは、人間のやることではない!」と拒否したため、大騒動に発展した。
このあと松本は議員の国会から追放された。
松本は被差別部落出身で、“平等”に強い信念を持っていて、「人間が人間を拝むという形式的な礼儀はばかげている」「天皇を再び神にするようなものである」と主張した。
しかし、国会でそれは通用せず、松本は国会から追放された。
この考え方が「カニばい拒否」の背景にあることは確かだが、松本は次の開院式では自身が否定した「カニの横ばい」をしたため、注目を集めたかったという“スタンドプレー”だという批判もある。
天皇に対する「不敬行為」が騒動になったケースは戦前にもあった。
有名な例として、1890年(明治23年)に第一高等中学校(現在の東京大学教養学部)の教員であった内村鑑三の不敬事件がある。
内村は青年期にキリスト教に改宗していて、これにより神社を見ても頭を下げなくなったことを喜んでいた。ということは、当時の日本(または一部地域)では、神社を見かけるたびに頭を下げる習慣があったらしい。神社は天皇と深く関わっていたことがその理由と思われる。
当時、教頭に次ぐ高い地位にあった内村は、構内で行われた式典(教育勅語奉読式)で、宸筆(しんぴつ:天皇が直接書いたもの)に対して最敬礼せず、そのまま壇上から降りてしまった。
*実際は宸筆ではなく、明治天皇の署名のコピーだったらしい。
これによって内村は同僚や生徒から非難され、マスコミにも取り上げられた結果、「内村鑑三の不敬事件」として全国的なニュースとなる。天皇への敬意と神への信仰、言い換えればキリスト教と日本の国体との関係をめぐる論争は大きな注目を集めた。
最終的には内村は居場所を失い、学校を去ることとなった。
ただし、内村に天皇を「ディスる」意図は全くなかった。彼は「Jesus(イエス・キリスト)」と「Japan」を同時に尊重する「二つのL」という思想を提唱し、キリスト教の信仰と日本への愛国心は矛盾なく両立すると訴えたが、世間の反応は薄かった。
松本は被差別部落の出身で“平等”を強く意識していて、内村はキリスト教徒として神への信仰を持っていたため、圧倒的多数のほかの日本人とは立場が異なった。このような状況では、「天皇と自分」の関係性が複雑で、「不敬」の解釈も一般人とは違う。
令和の現在でも、それで思い悩んでいる人はきっといる。
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