【イタリアの歴史】統一運動から、“未回収のイタリア”の完全解決まで

昔、500ピースのジグソーパズルをしていて、あと3つで完成というところまできたとき、それが無くなっていることに気がついた。99以上%ができたとしても、それでは納得できない。100年ほど前、1915年4月26日にイギリスとロンドン条約を結んだイタリアもそんな気持ちだったと思われる。

19世紀のはじめ、イタリアはサルデーニャ王国、パルマ公国、両シチリア王国など小さな国がいくつもあった。このままではいけないと、1815年にサルデーニャ王国を中心にイタリア北部で統一運動が起き、周りの国々を次々に併合して勢力を拡大していく。1861年にはイタリア王国が誕生し、イタリア統一はほぼ完成した。サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はそのまま初代イタリア国王になり、その功績から彼は「国父」と呼ばれるようになった。
以上の流れを日本の歴史でたとえるなら、分裂状態にあったイタリアは戦国時代の日本で、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は1590年に天下統一を果たした豊臣秀吉になる。

しかし、日本とは違って、イタリアにはローマ教皇領というやっかいな地域があり、そこはフランス軍によって守られていたため、イタリア王国は手を出せなかった。イタリアにとってローマは「心臓」のように重要な部分だったから、政府や国民は「完成いまだならす」という歯がゆさを感じていたに違いない。
1870年、フランスとドイツが戦争(普仏戦争)を始めると、フランス軍がローマから撤退したため、「いつやるの? 今でしょ!」とイタリアはすぐにローマを占領し、イタリア統一をほぼ完成させた。そして、翌年には首都をトリノからローマへ移す。
ただ、この出来事はその後も問題になり、1929年にムッソリーニがローマ教皇とラテラン条約を結び、「ヴァチカン市国」が独立してイタリアと切り離されることになった。

 

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

 

当時、南チロルやトリエステなどには多くのイタリア人が住んでいたが、まだイタリア領にはなっていなかった。世界史では、これらの地域を「未回収のイタリア」と呼ぶ。イタリアはその欠けた部分を取り戻し、統一を完成させたかったけれど、その地域はオーストリア領だったため、手を出すことができずにいた。
1914年、第一次世界大戦が始まると状況が一変する。
当初、イタリアはドイツやオーストリアと三国同盟を結んでいたが、イギリスが近づいてきて、こうささやいた。

「俺たちにつけば、戦争が終わった後、『未回収のイタリア』をお前たちのものにしてやる」

イタリアはこのエサにつられ、1915年4月26日にイギリスと手を結び、(ロンドン条約)、オーストリアへ攻め込んだ。しかし、戦後、イタリアは未回収の地域を手に入れることができなかった。イギリスの二枚舌外交は、イタリア人の予想を超えていた。

「未回収のイタリア」の問題が最終的に解決されのは21世紀になってから。
オーストリアやクロアチアなどの周辺国が欧州連合(EU)に加盟し、実質的に国境がなくなったことで、イタリア国民は自由に行き来できるようになり、「未回収」の意味はなくなった。
領土問題が自然消滅し、完全解決したという事例はめずらしい。

 

 

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