奈良には正倉院がある。
日本人にとっては当たり前のことが、世界の歴史を見ればそれは「奇跡」だ。
日本文化を紹介するサイト「artfuljapan」では、約1300年にわたっておよそ9000点の宝物を保存し、後世に引き継いできた正倉院を「奇跡的な宝庫」と紹介している。
the Shosoin is a ‘miraculous treasure trove’ that has protected and passed down nearly 9,000 treasures for nearly 1300 years.
Shosoin THE SHOW – Feel. The Miracle That Exists Here and Now –
756年、光明皇太后が亡くなった夫・聖武天皇の遺品を東大寺の大仏に奉献したことが、正倉院のはじまりだ。日本だけでなく、中国やペルシャの宝物も収められている。
世界では、1300年前の宝物が残っていることはあっても、数千点の宝物が隠されず、建物ごと残っている例は聞いたことがない。
なぜ日本でこんな奇跡が起きたのか。
ギリシャのアクロポリス(高い丘の上の都市)には、世界的に有名なパルテノン神殿がある。これは守護女神アテナを祀るための神殿で、紀元前5世紀に完成した。
現代では、パルテノン神殿は歴史的価値はもちろん、建物自体も古代ギリシャの最高傑作として高く評価されている。
世界遺産の中でも特に価値のある文化遺産で、落書きなどは絶対に許されない。しかし、これは現在の見方で、昔の人類は別の価値観を持っていた。
ギリシャでキリスト教が支配的になると、6世紀にパルテノン神殿はマリアの聖堂として使われるようになる。これはギリシャ神話の神アテナに対する“冒とく行為”だ。
その後、ギリシャがオスマン帝国に支配されると、15世紀にはパルテノン神殿はモスク(イスラム礼拝所)に変わった。
そして、1687年のきょう9月26日にぶっ壊された。

ユネスコのシンボルマークはパルテノン神殿をモデルにしてつくられた。このことからも、この文化遺産は別格であることがわかる。
当時、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国が戦火を交えていた。このモレアス戦争で、オスマン帝国はアテナ・ニケ神殿を破壊して砲台を設置し、パルテノン神殿を火薬庫として使っていた。ヴェネツィア軍がその火薬庫を砲撃すると、大爆発が起き、多くのオスマン兵が死亡し、神殿の屋根と壁の大部分が破壊された。
パルテノン神殿の受難はまだ終わらない。
19世紀になると、イギリス人トマス・ブルースが神殿から彫刻などを取り外して持ち帰り、ロンドンの大英博物館に売ってしまった。現在でもこれらの宝物は展示されていて、ギリシャ政府は「返せ、泥棒め!」と返還を求めているが、イギリス側は応じていない。

ヴェネツィア共和国とオスマン帝国の戦いを描いた絵には、パルテノン神殿に命中し、爆発を引き起こしたヴェネツィア軍の砲弾の軌道が見える。
昔の人びとにも文化遺産を大切にしようとする意識はあっただろうが、異民族や異教徒が建てたものだとその気持ちは薄れ、戦乱に巻き込まれると、簡単に破壊されることがよくあった。
同じ民族でも破壊や略奪はおこなわれた。中国の歴史では皇帝や貴族の墓が荒らされ、貴重品が根こそぎ奪われることが何度もあった。
そんなことは世界中で発生したが、日本はその例外で、正倉院はその代表例になる。
世界の美術や芸術作品を紹介するサイトは、正倉院が現在まで生き残った事実を「奇跡である」と表現した。
The fact that they endure to this day is a miracle.
Shosoin: A Millennial Treasure Trove for Culture Aficionados
とはいえ、正倉院にある品々が完璧に保存されてきたわけではない。足利義政や織田信長は、正倉院にある「天下第一の名香」と言われる蘭奢待(らんじゃたい)の一部を切り取って自分のものにした。ほかにも、歴史の中で紛失した物もある。それでも、9000点が保管されているのは世界的に見ればミラクルだ。

オットマール・フォン・モール
長い日本の歴史の中で、誰も正倉院を破壊して宝物を略奪しなかった理由は、明治時代に来日したドイツ人の記録を読むと見えてくる。
ドイツの外交官、オットマール・フォン・モールは明治政府に雇われ、1887年から2年間滞在し、皇室にヨーロッパの宮廷儀式を導入した。
彼が日光東照宮を訪れたとき、明治維新の動乱があっても、素晴らしい木彫りの像や漆器、絵画など、日本の高い芸術性を示す作品が残されたことは幸運で、感謝すべきだと述べた。その理由として、彼は『ドイツ貴族の明治宮廷記』(講談社学術文庫)でこう書いている。
「ここ日光では常時、皇室の親王が宮司をつとめていたことによるのであろう」
正倉院も同様だが、日本人は皇室が関わっているところには手を出さなかったのだろう。
15世紀に応仁の乱がはじまり、乱世になって、低い身分の者が上位の者を倒す「下剋上」がよくおこなわれ、社会の秩序は崩壊した。それでも天皇に危害を加える者は1人も現れず、京都の御所は「聖域」となっていた。
下剋上を起こして大名になる者もいたが、その法則を天皇に当てはめて自分が新しい天皇に即位することはなかった。
ヨーロッパ大陸の国々と違って、日本は海に囲まれているため、外敵の侵略を受けることもほとんどなかった。
そうした幸運な歴史から、現在の皇室は世界でもっとも長い伝統を持ち、ギネスで「世界最古の王朝」と認められている。
ギネスとCIAが認めた日本 控えめに言っても「世界最古の国」
もし、日本が歴史のどこかで異民族や異教徒に占領されていたら、正倉院はパルテノン神殿のように破壊や略奪の対象になっただろう。
正倉院の奇跡は皇室に対する日本人の敬意からうまれた。

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