文化の違いとコミュニケーションの地雷
あるイギリス人女性から、付き合っている日本人男性に「最近、君は太ってない?」と聞かれて、彼が謝罪して撤回するまで“劇詰め”したという話を聞いた。
イギリス人の感覚では外見に関する指摘はマナー違反で、人によっては恋人であっても許さない。
誰にでも触れられたくない話題はあるものだ。会話をしている最中、ウッカリその地雷を踏んで、爆発させて大ケガをする現象は毎日のように起きている。
個人レベルを超えて、世界中の国や社会にもタブーは存在する。
とくにそこで神聖視されている人や思想を否定することは最大級のタブーで、その地雷にふれると大爆発を起こし、自分がふっ飛ばされてしまう。
日本と欧州の歴史でそんな出来事があった。この2つの地域で、人びとを激怒させるテーマとは何だったのか?
西洋世界を揺るがした「ヴォルフ追放事件」
17世紀、クリスティアン・ヴォルフはドイツでパン屋の息子として生まれ、のちにヨーロッパ中で有名な哲学者となった。
彼には大きな挫折がある。もっとも彼がそう認識したかは知らない。
1721年、ヴォルフが講演をおこない、彼は孔子の道徳的教訓の純粋さを称賛し、それが「人間自身の理性の力だけで道徳的真理に到達できる証拠」であると指摘した。
he praised the purity of the moral precepts of Confucius, pointing to them as an evidence of the power of human reason to reach moral truth by its own efforts
当時のヨーロッパ社会では、キリスト教の影響がとても強く、熱心な信者も多かった。彼らは、人間が道徳的真理に到達できるのは「神のおかげ」と考えていて、その偉大な存在を無視し、人間の「理性」だけで真理に到達できるという主張は絶対に認められなかった。
また、中国の儒教を高く評価することは、キリスト教を否定することにつながる。それは、教会勢力にとって、信仰の根幹を揺るがす重大事だ。
支配者は国家の統合を宗教に頼っていたため、キリスト教の絶対性を傷つける言説は社会秩序を崩壊させる原因になりかねない。
ヴォルフの主張は、無神論を「大罪」と憎悪する人たちを激しく刺激することになった。プロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム1世は彼に激怒し、48時間以内に国外から退去することを命じ、それを拒否したら絞首刑にすると宣告した。
啓蒙主義と伝統的価値観の対立
ヴォルフはこの言葉がきっかけで大学教授の職をはく奪され、マールブルクへの逃亡を余儀なくされた。
当時の欧州世界では、神やキリスト教を絶対視する人たちがいたから、ヴォルフのような「猛毒」は社会から徹底的に排除された。同時に、その神聖性や独善性に批判的な勢力もあり、彼らがヴォルフを受け入れた。
ヴォルフの言動は最大級の地雷を踏んだことになり、あるイギリスの歴史家は「この紛争は18世紀の最も重要な文化的対立の一つとなり、フランス革命前の中央ヨーロッパとバルト諸国における啓蒙主義の最も重要な対立の一つとなった」と評した。
日本を揺るがした「津田事件」
それから約200年後、日本でも同じような事件が発生。
早稲田大学の教授で歴史学者だった津田左右吉が、古事記と日本書紀を純粋な学問の対象とみなし、批判的な考察をおこなった。
たとえば、彼は記紀の初期に出てくる天皇は実在せず、天皇の統治に正統性を持たせるために、後世の誰かがつくりあげた「架空の天皇」であると論じた。
また、記紀は事実だけが記された歴史書ではなく、何者かが創作した「政治的物語」であると見なした。さらに、聖徳太子について書かれた部分も、事実ではないと否定的に考えた。
当時の日本では、天皇は神聖視され、古事記・日本書紀にある日本神話は「歴史的事実」とされていた。ヨーロッパ世界で例えるなら、記紀は聖書と同じ「聖典」だ。
津田自身は、皇室の尊厳を汚する意識はなかったが、彼の説は日本の伝統や皇室の権威を破壊する「大地雷」と見なされた。
津田の主張は「万世一系」である天皇に対する「不敬」になるとし、彼を「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」とののしる者も現れた。
国家による言論弾圧
政府も事態を重く受け止め、内務省は1940年に津田の著作である『古事記及び日本書紀の研究』や『神代史の研究』を発禁処分にする。
文部省の要求によって、津田は早稲田大学教授を辞職させられ、東京地方検察局の取り調べを受け、1942年に裁判で禁錮3か月の有罪判決を受けた。
フリードリヒ・ウィルヘルム1世は、国民が神を信じなくなれば、自身の統治が不安定になると恐れた。日本政府は、津田の主張は天皇の絶対性を否定し、社会を混乱させる原因になりかねないと恐れたのだろう。
どちらも社会から危険思想を排除し、「国体」を守ろうとした。
「聖域」への客観的分析が招くリスク
現代の日本やヨーロッパなら、対話や論争で研究を深めていくところだが、当時は公権力によって異論は封じられた。
100年以上前の欧米ではキリスト教批判が、日本では皇室批判は「最大の地雷」だった。
これらは単なる信仰の対象ではなく、国家の正統性や社会の秩序を支える原理だったため、聖域を学問的な対象として、客観的に分析することは許されなかった。
統治者側にしてみれば、国家の正統性を脅かす政治的行為であり、体制への「反逆」と映ったのだ。
日本の「津田事件」とドイツの「クリスティアン・ヴォルフ追放事件」がその構図を示している。

戦後の価値観の変化と表現の自由
戦後になると、天皇は「人間宣言」を出して自身の神聖性を否定し、国民の象徴となった。もっとも、天皇が自身を「神」と宣言したことはなく、戦前の政府が国民を統治するために、天皇を勝手に「現人神」にしただけだったが。
「津田事件」のころと比べると、天皇がタブー視される空気はかなり薄くなった。
「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね」
「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ」
公の場で昭和天皇をそう批判した松島松太郎は、不敬罪ではなく、天皇個人に対する名誉毀損罪が適用され、後に免訴となった。
21世紀の現在、価値観は以前と大きく変わり、表現の自由も保証されている。
しかし、欧米では今でも神を、日本では天皇を否定・批判することは「地雷」であることは変わらない。

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