異民族支配の始まり
1912年2月12日、宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位して清は滅亡した。
中国のラストエンペラーである溥儀が亡くなる直前、日本のチキンラーメンを食べたいと言ったエピソードはわりと有名だ。
清の滅亡は日本にはなかった2つの重要な意味がある。まず、これによって、中国で2000年以上も続いた「皇帝が国を統治する制度」が消滅した。さらに、漢民族にとっては屈辱的だった満州族による支配もなくなった。
さて、ここで取り上げたいのは後者、異民族による支配だ。満州族の厳しい統治は次の言葉に象徴されている。
「留頭不留髪、留髪不留頭」
(頭を残したければ髪を捨て、髪を残したければ頭を捨てろ)
17世紀、中国で明が滅亡し、清が誕生した。これは、中国の歴史で繰り返されてきた単なる王朝の交代ではなかった。少数派の満州族が圧倒的多数の漢民族を支配するという、過酷な異民族支配の始まりとなった。

弁髪をしている中国人留学生
屈辱の象徴としての「弁髪」
新しい支配者となった清朝は漢民族に対し、残酷な要求を突きつけた。それを「薙髪令(ちはつれい)」という。
当時、満州族には、後頭部の一部の髪を残して1本に編んで、あとは剃り上げる「弁髪(辮髪)」という風俗があった。
満州族にとっては誇り高い髪型だったと思われるが、西洋人はこのビジュアルを見て容赦なく、「ピッグ・テイル(豚のしっぽ)」と呼んだ。
清王朝は薙髪令によって、漢民族にもそのヘアスタイルを強制したのだ。しかし、これは漢民族の伝統的な価値観に反するため、とても受け入れるものではなかった。
儒教の教えと身体の尊さ
儒教の「孝経」では、親への感謝の気持ちがとても重視されていて、こんな言葉がある。
「身体髪膚、之を父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり」
(自分の両手・両足、髪や皮膚も、すべて親からいただいたものである。身体を傷つけないことが親孝行の始めになる。)
弁髪にするということは、この教えを破ることになり、漢民族の精神性を根底から破壊することを意味した。
アイデンティティをかけた命がけの抵抗
弁髪にするということは、漢民族としてのアイデンティティを否定し、満州族に服従することをあらわす。そのため、この命令は漢民族のあらゆる階層の激しい不満や反発を招き、人びとは怒り狂い、泣き叫んだという。
髪形を守るために清朝に反抗し、むしろ死を選んだ人も多かった。
「為了保持髮飾,許多人因此反抗滿清,或者寧願一死」(剃髮易服)
すでに清に降伏した人や、服従するつもりだった人たちもその考えを変え、次々と蜂起し、反清の旗を掲げた。「薙髪令」によって、大規模な抵抗運動は全国各地で発生し、政局は長期にわたって不安定となった。
容赦ない処刑と「留頭不留髪」の恐怖
そこまで大きな反発を予想していなかった清は、「分かった。いきなりではない。1年の猶予を与えるから、心の準備をするように」と言うほどやさしくない。
街中で弁髪にしていない人間を見つけると、その場で髪を剃るか、それを拒否する者は処刑して首を晒(さら)した。
こんな清王朝の厳しい態度に対し、
「留頭不留髪、留髪不留頭」
(頭を残したければ髪を捨て、髪を残したければ頭を捨てろ)
という言葉が流行し、漢民族を震え上がらせた。こうして、死体以外はすべて弁髪をするようになった。弁髪の対象は男性に限られたが、それを拒否した者がいた場合、その家族全員が処刑されることもあった。
解放のハサミと「自立」の叫び
1912年、辛亥革命によって清朝が崩壊したあと、中国全土で起きたのは「断髪」だった。
人びとは路上や広場で、お互いの編み込みをハサミで切り落とした。それは、250年以上にわたる抑圧からの解放を意味し、奴隷状態だった者が鎖を断ち切ることを意味した。
漢民族にとって髪を切ることは異民族の支配を乗り越え、主権を自分たちの手に取り戻し、「自由」と「自主独立」を世界へ宣言することとなった。
もし、日本が元寇に敗れてモンゴル軍に支配されていたら、この歓喜が理解できるかもしれない。

コメント