【大津事件】天皇が謝罪し女性は自殺し…、ロシアの反応は?

 

もし、イギリスの皇太子が訪日して、日本政府も国民も国を挙げて歓迎していた中、警備にあたっていた警察官が刃物を持って皇太子に襲いかかり、頭部にけがを負わせてしまったら、日本はどうなるのか?
(ちょうどきのう『シン・ゴジラ』を見たのだけど)政府や関係各所は「ゴジラ東京へ上陸!」みたいな大騒ぎになると思われる。
1891年の5月11日、そんな国難が滋賀県で発生した。

 

津田三蔵

 

ロシアの皇太子ニコライ(後のロシア皇帝ニコライ2世)が訪日し、人力車に乗って大津を移動していると、警護をしていた警察官の津田三蔵が目が光った。
「いつやるの? イマでしょ!」とばかりに彼はサーベルを抜いて皇太子に斬りかかり、逃げる皇太子を追ってさらに一撃を加えようとしたところ、人力車夫に足を引き倒され、取り押さえられた。
ニコライは助かったが、頭部に9 cm近くの傷を負う。
日本にとっては歴史的な大失態だ。
この暗殺未遂事件が歴史の授業でならう「大津事件」で、場所が琵琶湖の南部だったことから「湖南事件」とも呼ばれる。
しかし、「見た目は子供、頭脳は大人」の名探偵を呼ぶまでもなく、この事件の犯人は明らかだ。
津田はロシアの極東進出に反感を持っていて、それが動機になったと言われるが、正確なところは分からない。
動機の解明ではコナン君の知恵が必要だ。

 

 

津田を取り押さえた2人の車夫は「英雄」となった。
しかし、この時まだ彼らは知らなかった。1904年に日露戦争が起こると、人生が暗転することを。

 

ニコライを接待をしていて、現場にいた皇族の有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう)は、「これはとんでもない外交問題になる。自分が対処できるレベルじゃない」と判断し(大正解)、すぐに明治天皇へ連絡する。
代理の者ではなく、天皇自らが京都まで出向いて見舞いをして、ロシア側に日本の誠心誠意を見せるべきと主張した。
天皇は翌日、列車に乗って京都に移動し、13日にニコライに会って謝罪の言葉を述べた。が、本国の意向もあり、ニコライは予定していた東京訪問を中止し、神戸からロシアへ帰ってしまった。
この際、明治天皇は三人の親王を引き連れて、ニコライを神戸まで見送った。

大津事件が報じられると、「報復としてロシアが日本に攻めてくる!」と日本中がパニック状態となる。(「ゴジラ上陸」並みの緊急事態)
神社やお寺、教会では、ニコライの回復のための祈祷が行われ、学校は「反省」の気持ちを表すために休校となった。
日本中からニコライに見舞い電報が届き、その数は1万通を超えた。
津田の出身地だった山形県の村では、名字に「津田」、名前に「三蔵」と名付けることを条例で禁止する。
きわめつけは事件発生の9日後に起きた出来事だ。
5月20日、畠山 勇子(はたけやま ゆうこ)が、もはや自分の命をもって詫びるしなかいと思いつめ、京都府庁の前でカミソリで喉を突いて自ら命を絶った。

事件とまったく関係ない20代の女性が責任を感じ、自殺した出来事は、ロシア人には理解不可能だったと思われるが、多くの日本人が彼女の考え方や行動に共感した。
当時の緊張した空気をよく表している。

 

ニコライ皇太子

 

日本が「一億総ざんげ」となるのも仕方ない。
当時の日本はまだ極東の小国で、武力でロシアに勝てるはずがないのだから。
最悪のケースとして、これをきっかけにロシアに宣戦布告され、日本が植民地になることが考えられた。
そこまでいかなくても、日本の財政が傾くほどの賠償金を請求されたり、領土の割譲を要求されたりする事態も十分あり得る。
この国難に際し、日本政府内では、「津田に死刑を宣告し、処刑するしかない!」という主張が大勢を占めたが、裁判所はそれを退け、一般人に対する謀殺未遂罪として津田に期懲役を言い渡す。
これが海外で報じられると日本の「司法権の独立」が評価され、日本に対する信頼が高まり、日本の悲願だった不平等条約改正に良い影響を与えることとなった。

では、ロシアの反応はどうだったのか?
ロシア公使は、津田が期懲役になったことを知ると、どんな事態を招くかわからないと、日本政府を戦慄させるような発言をした。
しかし、ロシア政府は公式に、日本の対応に全面的に満足していると表明し、もし津田が死刑判決を受けていたならば、慈悲(減刑)を求めただろうと述べた。

The Russian government officially expressed full satisfaction in the outcome of Japan’s actions, and indeed formally stated that had Tsuda been sentenced to death, they would have pushed for clemency

Ōtsu incident

 

実際、ロシアは武力報復はもちろん、賠償要求もしなかった。
明治天皇をはじめ日本政府や国民が謝罪して誠意を見せたことで、皇帝や皇太子もが寛大な態度をとったこともあるだろうが、当時のロシアが日本との友好関係を重視していたことも間違いない。
畠山勇子の決死の覚悟がロシアを(少しは)動かした可能性もある。
もっともロシア側は、13年後にはじまった日露戦争で敗北した時、「あんとき日本をボコっておくべきだった!」と大後悔しただろうけど。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。