きょう12月2日は「日本人宇宙飛行記念日」だ。
1990年のこの日、秋山豊寛さんを乗せたソ連のソユーズTM11号が宇宙に向かって飛び立ち、秋山さんが日本人初の宇宙飛行に成功。
この日はその快挙を記念するために制定された。
で、フランスを見てみると1804年の12月2日は、ナポレオンがパリのノートルダム大聖堂でフランス皇帝に即位した日だ。
低い身分の軍人だったナポレオンが自分の力でフランスの頂点に立ち、フランス第一帝政を始める。
当時のヨーロッパでは、皇帝がローマ教皇に頭をさし出して王冠をかぶせてもらうのがマナーだったのに、ナポレオンは教皇の目の前で、自らの手で王冠をかぶって常識をブチ破った。
ヨーロッパに自由の革命精神を広めたかったナポレオンは、この大胆な行動によって皇帝の地位(帝冠)は血筋ではなく、個人の努力によって得られるということを世に示したかったという。
ちなみに、このナポレオンの甥(おい)にあたるルイ=ナポレオンも1852年の12月2日に、ナポレオン3世としてフランス皇帝に即位して第二帝政をスタートさせた。
これは偶然ではなく、偉大なナポレオン皇帝による栄光の時代を国民に印象付けたかったのだと思われ。
皇帝ナポレオン、爆誕す
ナポレオンには圧倒的な力と勢いがあったし、血筋を否定して実力主義をアピールされたら、周辺国の貴族や王族は恐怖を感じるしかない。
イギリス・オーストリア・ロシアなどが「第三次対仏大同盟」を結成して、ナポレオン包囲網を敷いて対抗するのも当然。だが、フランスの英雄は強かった。
皇帝即位からちょうど1年後の1805年12月2日、(現在はチェコにある)アウステルリッツでナポレオンはロシア・オーストリア連合軍を撃破して第三次対仏大同盟を崩壊させた。
フランス皇帝、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が同じ戦場に集結したことから、このアウステルリッツの戦いには「三帝会戦」という、中二病心をくすぐる壮大な別名もある。
この戦いのあと、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世はこんな声明を発表した。
「朕(ちん)は帝国に対する全ての義務から解放されたと見なし、これにより、朕とドイツ帝国との関係は解消するものであるとここに宣言する。 」
全ての義務からの解放。
フランツ2世はそんなカッコイイことを言ってるが、実はこれは神聖ローマ帝国の崩壊と、自身の皇帝退位を表している。
「普通の女の子に戻りたいんです」と言って解散したキャンディーズと同じだ。(いやしらんけど)
神聖ローマ帝国とは逆に、強敵を打ち破ったナポレオンはこのあと絶頂期を迎えた。
素晴らしい快挙をたたえるのなら、その記念日をつくればいい。
偉大なる勝利をたたえるには、素晴らしい建造物を建てて永遠の記念にすればいい。
というわけでナポレオンはアウステルリッツの戦いの勝利を祝して、1806年に凱旋門の建築を命じた。
これがパリにある世界的な観光スポット「エトワール凱旋門」で、ふつう世界で凱旋門といえばこの門を指す。
門を築くことで戦いの勝利を祝すのは古代ローマ人の発想で、いろんな常識を打ち破ったナポレオンもこれについてはヨーロッパの伝統を受け継いだ。
建築物としてはフランスのナポレオン・ボナパルトがパリに作らせたエトワール凱旋門(1836年)が有名であるが、これも古代ローマの風習にならったものである。
ただ、凱旋門が完成したのは1836年で、このときナポレオンはすでにこの世の人ではなかった。
ナポレオンにとってフランス皇帝に即位して、翌年には強敵を撃破して英雄伝説の始まりとなった「12月2日」は本当に特別な日だったはず。
*だからルイ=ナポレオンもそれにあやかりたかったのだろう。
パリの凱旋門は彼の栄光をいまに伝えている。
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彼らはフランス革命で王家を廃絶に追い込み、一度は議会による共和制を敷いたものの、その後も何度か総統制や大統領制へ立ち戻って現在は大統領と首相の並立制に落ち着いています。そのフランスの姿には、英国とは違う、ギリシャ・ローマ文明時代からのラテン諸国の伝統を感じます。
ドイツはラテン民族ではない(ゲルマン民族)ですが、政治権力のトップは首相が担い、国の統合の象徴的役割を大統領が担っています。これも結局、ラテン諸国と同様に、各国を統べるキリスト教会(ローマ教皇)をその頂上に戴く「神聖ローマ帝国」の流れを汲む姿なのでしょうね。
現EUもその延長にあると言えます(だからこそ英国は脱退した)。でもこの先、果たしてどうなることやら。