きょねんの10月、イスラム組織ハマスがイスラエルにテロ攻撃をしかけ、1000人以上の民間人を殺害した。
こうして地獄の門が開かれた。
イスラエルはこれに対し、「強い遺憾の意を示す!」とか寝ぼけたことは言わず、戦闘機や戦車による報復攻撃を開始し、ガザ地区での死者はすでに2万人を超えている。
その多くは女性や子どもだ。
ガザに住む親たちは、子どもの手足などに名前を書いているという。
爆撃で体がバラバラになっても、その「肉塊」が誰のものか分かるように。
さて、1898年のきょう1月13日は、フランスで作家のゾラが『私は弾劾する』を新聞に発表した日だ。
この出来事も、現在のパレスチナ問題の背景になっている。
日清戦争が起きた1894年、フランスでは陸軍の大尉だったユダヤ人のドレフュスがスパイ容疑で逮捕された。
これが「ドレフュス事件」のはじまりだ。
最初にネタバレをしてしまうと、ドレフュスは何も悪いことをしてないない。
にもかかわらず、彼は裁判で終身禁固刑を言い渡され、フランスから遠く離れた南米の悪魔島(ディアブル島)へ送られた。
ところが、フランス陸軍情報部の捜査で、実際のスパイはフランス陸軍の少佐であることが判明する。
この男が真犯人であるにもかかわらず、軍法会議では無罪となり、彼はイギリスに逃亡してしまう。
フランス陸軍情報部の捜査で、実際のスパイはフランス陸軍の少佐であることが判明します。真犯人はこの男だったが、彼はフランス人だ。
軍法会議でこの男には無罪が宣告され、彼はイギリスに逃亡してしまう。
しかし、作家ゾラの目はごまかせない。
この事件はユダヤ人差別による冤罪と見抜き、彼は1898年1月13日、新聞に『私は弾劾する』という公開状を載せ、軍を批判してドレフュスの無実を訴えた。
暗部や恥部をさらされた軍や政府にとっては、これは公開処刑のようなもの。
「事実陳列罪」を犯したゾラは告訴され、名誉棄損で有罪判決を受ける。
フランスの世論は、ドレフュスの再審を求める人たちと、それに反対する人たちが対立し、真っ二つに分かれた。
最終的には、ドレフュスは1906年に無罪判決を受け、自由の身となった。
ゾラが紙上で発表した『私は弾劾する』
上の絵では、左端の男が「いいかね、ドレフュス事件の話はしないように」と言っている。
しかし、誰かがそれを口にしてしまったため、乱闘がはじまった。
当時の敏感なフランス世論を風刺している。
1948年まで、ユダヤ人は「国のない民」として、ヨーロッパ各国で“居候(いそうろう)”のような弱い立場で生活していた。
だから、何かあると、虐殺や追放といった迫害を受けてしまう。
そんな反ユダヤ主義を背景に、19世紀になると、パレスチナの地で再びユダヤ人の国を建設をしようとするシオニズム運動が起きた。
シオンとはエルサレムにある丘で、エルサレムの象徴でもある。
そのシオニズム運動で中心的な役割を果たし、イスラエル建国の父とされているのがテオドール・ヘルツル。
ドレフュス事件が起きた時、彼は新聞記者として取材をしていて、ユダヤ人に対するフランス人の根強い敵意や憎悪の知り、大きなショックを受けた。
この事件がヘルツルの世界観を変え、彼は聖書にあるイスラエルの地にユダヤ人の国を回復する運動にのめり込む。そして、すぐにシオニズム運動を主導するようになった。
The Dreyfus affair shook Herzl’s view on the world, and he became completely enveloped in a tiny movement calling for the restoration of a Jewish State within the biblical homeland in the Land of Israel. Herzl quickly took charge in leading the movement.
オーストリアで過ごしていたヘルツルは、現地の反ユダヤ主義的な雰囲気を嫌い、ヒューマニズムのイメージがあったフランスに移住する。
彼はフランスをユダヤ人にとっての「避難所」と考えていたが、そこでも、やっぱり差別から逃れることはできないと知り、ヨーロッパに絶望した。
ヘルツル
この後ドイツで、究極のユダヤ人迫害であるホロコーストが起こった。
ナチスによって600万人が殺害されたことで、ユダヤ人は自分たちの国を持ち、安心して生活できることを強く願うようになる。
1947年の国連決議によって、パレスチナの地にイスラエルが建国されることが決まった。
ただ、このユダヤ人の悲願は、パレスチナに住むアラブ人にとっては悪夢になった。
パレスチナ側からすると、「ヨーロッパから大量の人間がやってきて、われわれの土地が奪われた」ということになるのだから。
1948年にイスラエルが建国されると、それに反発し、翌日(5月15日)にアラブ諸国が攻め込み、第1次中東戦争がぼっ発する。
このパレスチナ問題は未解決のまま現在まで続き、イスラエルとハマスの戦争につながった。
ヨーロッパでの「ユダヤ人問題」はイスラエル建国でいちおう終わったが、それによってはじまったパレスチナ問題は解の見通しがまるで見えない。
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