【トルコの歴史】突厥→イスラム化→セルジューク朝→オスマン帝国

日本に鉄砲が伝わった1543年の少し前、オスマン(トルコ)帝国では1520年のほんじつ9月30日、スレイマン1世がスルタンに即位した。
※イスラム世界で皇帝は「スルタン」と呼ばれた。
スレイマンという名前は、旧約聖書に登場する古代イスラエルの王「ソロモン」に由来している。彼は名前負けせず、数々の戦いに勝利し、オスマン帝国は最盛期を迎えた。その偉大さから、彼は「壮麗王(the Magnificent)」とも呼ばれている。

 

オスマン帝国の第10代皇帝・スレイマン1世。
トルコ語の「チュルバン(ターバン)」がチューリップの語源になったという説がある。

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目次

トルコは中東だがアラブではない

トルコ人に「トルコって中東の国だよね」と言うのはOKだが、「トルコってアラブの国だよね」と言うのは禁句だ。その言葉はきっとトルコの人たちを怒らせる。

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トルコ人はもともと現在の場所(アナトリア)にいなかったし、アラブ人とも違う。トルコの歴史をみればそれがわかる。

8世紀、アラビア半島にいたムハンマドが洞窟で瞑想をしていると、天使ジブリール(ガブリエル)が現れ、彼に神の言葉を伝えた。こうしてムハンマドは預言者となり、アラブ人に神の言葉を広めてイスラム教の歴史がはじまった。
この中にトルコ人はいなかった。
ちなみに、ムハンマドがアラビア半島でイスラム教を広めていたころ、日本では聖徳太子が仏教を広めていた。

トルコ人による「初めての国」

チュルク語を話す民族を「テュルク系民族」と言い、その中にトルコ人(民族)がいる。トルコ人のルーツは中央アジアの遊牧民にあるため、知人のトルコ人は中学生のとき、歴史の授業で先生から「私たちはチンギス・ハーンの子孫です」と教わったという。

6世紀、中国北部にチュルク系民族の国・突厥(とっけつ)が誕生。
「チュルク」の発音を漢字で表したのが「突厥」とされているから、「突厥=チュルク」と考えてよし。先ほどのトルコ人は学校で、トルコ人が建国した初めての国は突厥だと学んだ。
ということで、トルコ人はもともと中央アジアにいて、アラビア半島にいたアラブ人とはまったく別の民族なのだ。
「和を以て貴しとなす」のジャパニーズと違って、遊牧民は団結力に欠けるせいか、突厥は東西に分裂し、唐などの攻撃を受けて8世紀に滅亡した。

 

テュルク系民族はトルコから中国西部、ロシア北部にいたるまで、広い範囲に住んでいる。

中央アジア・テュルク族のイスラム化

中東では、750年にイスラム帝国のアッバース朝(首都バグダード)が現れて勢力を拡大し、最盛期には、今のスペインからパキスタンに至るまでの広大な範囲を支配した。
建国の翌751年に、中国のはるか西方のタラス地方(現キルギス)で、唐とアッバース朝とのあいだで戦闘がはじまり、唐が負けた。
結果的に、この「タラス河畔の戦い」で中国の製紙法がイスラム世界に伝わったとされる。
いっぽう、アッバース朝の勝利によって中央アジアで仏教は衰退し、それに代わってイスラム教が永久的に定着した。

The Abbasid victory resulted in the permanent establishment of Islam up to the Amu Syr region and the decline of Central Asian Buddhism.

Battle of Talas

「タラス河畔の戦い」のあと、テュルク系民族の間にイスラム教が広まっていった。
現在でも、カザフスタンやウズベキスタンなど中央アジアの国々では、イスラム教が支配的な宗教となっている。

セルジューク朝

11世紀の前半、テュルク系遊牧民のセルジュークから、トゥグリル・ベグというリーダーが登場し、彼がセルジューク朝を建国。
トゥグリル・ベグはカリフ(ムハンマド後のイスラム世界における最高権威者)にバグダードへ招かれ、そこでスルタンの称号を与えられた。こうして、イスラム世界で初めてスルタンという称号が公式に認められるようになった。

※一昔前は、セルジューク族のトルコ国家という意味で「セルジューク・トルコ」や「セルジューク朝トルコ」と言われていたが、今はシンプルに「セルジューク朝」と呼ぶのが一般的だ。

トルコ人によるイスラム王朝であるセルジューク朝は、1071年にアナトリア(現トルコ)で東ローマ帝国と戦い(マラズギルトの戦い)、これに勝利して東ローマ皇帝を捕虜にした。この戦いなどを通じて、トルコ人がアナトリアへ進出していくようになる。

 

セルジューク朝の領土(1092年)
アナトリアには東ローマ帝国があったため、セルジューク朝の勢力はそれほど強くなかったと思われる。

オスマン帝国

日本で鎌倉幕府が成立した直後の1194年に、セルジューク朝は滅亡した。その後、セルジューク朝に仕えて東ローマ帝国のキリスト教徒と戦っていたオスマン家から、オスマン・ベイが現れ、彼が後にオスマン1世となってオスマン帝国をはじめる。
ちなみに、オスマン1世の父親であるエルトゥールルにちなんで、オスマン帝国の軍艦に名前がつけられた。明治時代、この軍艦が沈没し、日本人が乗組員を助けたことがきっかけになり、日本とトルコの友好関係が築かれた。

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1453年、オスマン帝国はコンスタンティノープルを落とし、古代から続くキリスト教の国・東ローマ帝国を滅ぼした。そして、そこをイスタンブルと改称して帝国の首都とし、その後、「壮麗王(the Magnificent)」の時代にオスマン帝国は全盛期を迎えた。

ちなみに、外国人と英語で話すときはきっと「オスマン」では通じないから、「オットマン(ottoman)」と発音したほうがいい。

 

オスマン時代の衣装

 

 

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

コメント

コメント一覧 (4件)

  • トルコは韓国の歴史において高句麗と緊密な関係でした。
    歴史書には「돌궐(突厥 pronoun:dol-gurl)」と表記します。高句麗と突厥は連合して中国(隋、唐)と対立しました。その後、韓国は忘れてしまいましたが、トルコは依然としてその縁を記憶し、韓国を”兄弟の国”と考えています。
    特に、2002年の韓日ワールドカップ当時に、ブラジル対トルコ戦で審判を務めた韓国人主審が誤審でトルコ選手を退場させるという事態が発生しましたが、トルコでは「兄弟の国が我々(トルコ)を裏切った」と猛非難したことを覚えています。

  • おもしろい情報をありがとうございます。
    古代の盟友関係を2002年に訴えたのですか。歴史はいろいろなところでつながっていますね

  • 韓国が無情なのか、トルコがすごい絆感覚を持っているのかわかりませんが、韓国人も覚えていない兄弟国が世の中に存在するというのが気持ち悪くはありません。 ありがたいだけです。

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