5月4日はみどりの日の祝日で、日本国民は自然に親しみ、豊かな心を育むことになっている。
150年ほど前にタイムスリップすると、1856年のこの日、江戸幕府は築地に軍艦操練所を設置した。
日本人なら、ご先祖様が「世界に誇るべき事実」と感じた出来事を知っておいていい。
1853年の夏、アメリカの艦隊が江戸湾の玄関にあたる浦賀に現れ、煙突からもうもうと煙を吐き出す蒸気船を見て日本人は言葉を失った。
この艦隊を最初に見たのは浦賀の沖合で漁をしていた船乗りたちで、彼らの姿はペリーの目にこう映ったらしい。(ペリー提督日本遠征記)
「彼らは船の上に立ち上がり、日本の海に最初に登場した蒸気船を、驚愕の色をあらわにして眺めていた。」
これは現代の日本人なら、宇宙から理解を超えた物体が東京に飛来するようなものだから、ぼう然と立ち尽くすのも当然。
しかし、日本人は自分たちにも同じことができると考えた。
江戸幕府は海軍を創設することを決め、その教育機関として 1855年に長崎海軍伝習所を設置した。次に、江戸の築地にも軍艦操練所をつくる。
その後、江戸から遠い長崎海軍伝習所は閉鎖され、幕臣や日本各地の藩から来た学生たちは、築地で海軍の教育を受けることとなった。
長崎ではオランダの軍人が教えていたが、軍艦操練所ではレベルアップして、日本人の教官が日本人に教育を行なっていた。
初めて太平洋を渡った日本の船として知られる咸臨丸
幕府は、アメリカのハリスと日米通商修好条約を結んだ後、アメリカに使節を派遣することにした。(万延元年遣米使節)
その際に、アメリカの軍艦とは別に、軍艦操練所にいた日本人が蒸気船を操り、渡米することも決まった。
それに選ばれた船が咸臨丸。
「咸臨(かんりん)」は古代中国の書(易経)にある言葉で、咸(かん)じて臨(のぞ)むという意味。上と下の人間、つまり君主と臣下が心で感じ合い、協力して何かに臨むということ。
こうして1860年、日本人の使節を乗せたアメリカ軍艦「ポーハタン」と一緒に咸臨丸も品川を出航し、アメリカへ向かった。
咸臨丸に乗って渡米した福沢諭吉は、日本人が数年前に初めて蒸気船を見て衝撃を受けたことを思い起こし、高ぶるものがあったようす。
蒸気船を見て足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、それで万延元年の正月に出帆しようというその時、少しも他人の手を借りずに出掛けて行こうと決断したその勇気といいその技倆といい、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う
「福翁自伝 (岩波文庫)」
しかし、残念なお知らせがある。
日本人だけで航海しようと決断したが、それでは不安だということになり、咸臨丸にはアメリカの軍人も乗っていたのだ。
航海では天気が荒れると、日本人はパニクって対応できず、アメリカ人にやってもらい、乗船していたブルック大尉は「日本人たちは全くわれわれに頼り切っている」と書いている。
それでも、約 40日後に日本人は蒸気船でサンフランシスコへ到達した。
当時、西洋以外の国でこんなことを実現した国はないのだから。
幕末の日本がアメリカからやって来た蒸気船に驚がくしたけれど、すぐにその操縦の仕方を身に着け、アメリカへ行くことができた。
そんな「世界に誇るに足るべき事実」を時々でいいから……思い出してください。
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