3月3日は1105年に、藤原清衡(ふじわら の きよひら)が平泉(今の岩手県)に釈迦如来を安置する多宝寺を建立し、中尊寺の歴史がはじまった。
藤原清衡は平安時代の武将で、奥州藤原氏の初代当主でもある。
深い森の中にある中尊寺は有名な金色堂も含めて、奥州藤原氏の栄光と没落、無常観を感じられる特別なところなので、ぜひ足を運んでほしいと、岩手県に行ったこともないボクが言ってみる。
でも、行った人のレビューを見ると、「自然に囲まれた境内の美しい建築物や庭園に感動」や「神聖な空気が漂っていて気分はいいです」といった高評価が多い。しかし、なかにはこんな感想を持った人もいる。
「歴史や建築に興味がなければ、金色堂1,000円はお高いかもしれません(中略)歴史を多少頭に入れてから訪問した方が確実に満足度は上がります。」
では、満足度をアップさせるため、中尊寺金色堂にかかわる歴史について書いていこう。
幕末の日本へやってきて、開国を迫ったアメリカの軍人ペリー。彼の日記を見ると、1492年にアメリカ大陸に到達したコロンブスについて、こんな記述がある。
出航にあたって、彼はその航海の末にはジパング、マルコ・ポーロのイタリア語の記述によればチパンゴに、到着するだろうと考えていた。したがって(周知のように)キューバに到達したとき、彼はついに長年夢見ていた目的地にたどり着いたと思い込んだのだった。
「ペリー提督日本遠征記 上 (角川ソフィア文庫) M・C・ペリー; F・L・ホークス」
ジパング(チパング)とは日本のこと。
13世紀に中国(元)を訪れ、そこに17年ほど滞在していたマルコ・ポーロは、自身が見聞きしたことを『東方見聞録』にまとめた。そこには、中国の東方に「ジパング」と呼ばれる独立した島国があり、人々は礼儀正しく穏やかであることや、莫大(ばくだい)な金を産出し、王の宮殿は金でできていることなどが記されていた。
コロンブスはこれを読んで、黄金の国・ジパングへ行ってみたいと思うようになる。それが動機の一つとなり、命がけの航海に出ることを決めたのだ。
そのことについて『ジャパンタイムズ』にはこんなことが書いてある。
彼は“気高いチパング島”、つまり日本に向かっているのだと思った。チパング島は、当時、アジアを指す言葉であった「インド諸島」への入り口となるだろう。(Jul 27, 2013)
he was bound, he thought, for “the noble island of Cipangu” — Japan.
Cipangu would be his gateway to “the Indies,” then the term for Asia
What if Columbus had reached his goal, Japan?
そして、現在のキューバにたどり着くと、「すごいぞ! ジパングは本当にあったんだ!」とコロンブスはかん違いをしてしまった。
ちなみに、ペリーがそんなことを書いたのは、自分たちの功績を誇るためだと思われる。
彼の日記には、コロンブスは本当のジパングを見つけることができなかったが、自分たちはそこに行って開国をさせ、日本と世界の国々との架け橋になったのは「ほかならぬアメリカ自身だった」と誇らしげに書いてある。
16世紀に使われた地図には、現在のアメリカ大陸のすぐ西にジパング島(Zipangri:ジパングリ)が記されている。
なんでコロンブスはジパング(日本)を「長年夢見ていた目的地」と考えていたのか?
ジパングが「黄金の国」と表現されるようになったことについては、「ジパング=奥州平泉説」がある。平安時代末期、奥州平泉は平安京に次ぐ日本でナンバーツーの大都市として繁栄していた。大量の砂金が出て、奥州藤原氏はそれを国際貿易に使っていたことや、キラッキラの中尊寺金色堂があることなどから、中国で「日本=黄金の国」というイメージができ、それをマルコ・ポーロが聞いて、ヨーロッパに伝えた。
これは一つの説で、確定された事実ではない。
でも、金色堂が黄金の国・ジパングのモデルとなり、コロンブスが航海する動機の一つになったという世界史レベルの話を聞くと、中尊寺金色堂の満足度はアップして、入場料の1,000円は安く感じるのでは?
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