【天狗党の乱】幕末に起きた救いどころのない、胸糞悪い出来事

1864年5月2日から始まった「天狗党の乱」。それは幕末の黒歴史というよりも、不快指数が高く、後味も最悪に悪い出来事なので、幕末の「胸糞事件」と言ったほうがいいと思う。
この乱で天狗党が降伏すると、幕府側は352人を斬首した。日本の歴史で、一度に最も多く処刑された事件は何だろう? と思ってAIにたずねたら、「明確に特定することは難しいです」という条件付きで、長崎で55人のキリスト教徒が処刑された元和の大殉教を挙げていた。その約7倍の人が処刑された天狗党の乱は日本最多の事件かもしれない。
それはこんな出来事だ。

1858年、江戸幕府はアメリカと日米通商修好条約を結び、本格的に開国し横浜港を開く。同じ年に、幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同じ内容の条約を結んだ(安政五カ国条約)。しかし、孝明天皇は西洋人が大嫌いで、日本に入れたくなかったため、これに反対し、横浜港を閉めるよう幕府に要求。幕府は天皇と西洋列強の板挟みで困り果てた。

水戸藩の天狗党は天皇を支持する攘夷派で、日本から外国人を追い出すことが正しいと信じていた。しかし幕府が、今風に言えば「緊張感を持って注視する」的な、何もしていなかったので、ついに忍耐の限界を超え、彼らは幕府に横浜港を閉鎖し、攘夷を実行するよう要求するため、1864年に現在の茨城県の筑波山で挙兵した。
この名前は、彼らが水戸藩の中で反対派から「偉そうにしている」と批判され、「調子に乗っている」ということで天狗党と呼ばれたことに由来する。彼らは逆に、国家に忠誠心があり、志が高い人間を「天狗」と考え、そう名乗るようになった。

 

天狗党の人たち

 

武田耕雲斎をトップとする天狗党は尊王攘夷派の武士の集まりだったが、実際には強盗集団となった。軍資金が足りなくなると、彼らは役人や金のある商人、豪農を武器で脅し、無理やり金を提供させ、嫌がる者はその場で殺害した。天狗党は強盗、放火、略奪、殺人などあらゆる悪事を行い、多くの人々から恨みを買って敵を作り、後でそのツケを「一括払い」することになる。
こんな無秩序な集団が本気を出した幕府軍には勝てるはずもなく、1865年に降伏し、天狗党の乱は終わった。彼らにとっては地獄の始まりだ。

幕府側は天狗党の人間なんていつ死んでもかまわないと思っていたらしい。彼らを「鯡倉(にしんぐら)」に押し込み、極寒の冬でも身に着けるものは褌(ふんどし)しか許さず、手かせや足かせをつけて苦痛や屈辱を与えた。食べ物は一日に握り飯ひとつだけで、排泄は倉の中に置かれた桶(おけ)にした。明かりのない暗い場所で、腐った魚と糞便の臭いが漂う中、大勢の人々が閉じ込められていたため、次々と病気に倒れ、死者も続出する。
そんな家畜のような扱いを受けた後、武田耕雲斎ら天狗党の352名が処刑された。この人数が斬首されると、どれだけ大量の血が流れたのか、想像を絶する。

一方、水戸藩では天狗党の家族の処刑が始まった。
とくに悲惨だったのは耕雲斎の妻で、塩漬けにされた夫の首を持たされたまま斬首され、子どもや孫まで処刑された。その運命は他の天狗党の家族も同じだ。
ただ、武田耕雲斎の孫の武田 金次郎の命は助けられた。その後、幕府が消滅し、金次郎は朝廷から罪を許され、水戸に戻ると彼は「復讐の鬼」となり、一族を処刑したグループの人間を襲い、殺害した。
幕末に起きた天狗党の乱は、救いどころがなく、本当に胸糞悪い事件だ。

 

 

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

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