日本で「米騒動」と聞くと、歴史の授業で習った大正時代のものが思い浮かぶ。でも、ネットを見て、1993年にあった「平成の米騒動」を思い出した。
規模は違っても、大正・昭和・平成と、米をめぐる騒動はちょくちょく発生していて、今は約30年ぶりにその真っ最中。
去年から米が手に入りにくくなって、価格も急騰し、国民生活に大きな影響を与えている。これはもはや“事件”だから、ウィキペディアには「2024年の米騒動」という項目まで作られ、どんどん量が増えている。
主食の値段が1年で2倍以上に上がり、スーパーには5キロで5000円を超える米が並んでいるのは、ちょっと記憶にない異常事態だ。
だから、その半額以下、税込みで5キロ2200円ほど備蓄米が販売されるという発表があると、消費者が殺到し、開店前から1000人以上が並んだ店もある。
朝4時台に店に行って、4〜5時間待って米を手に入れた人を聞くと、その足腰の強さに畏敬の念を感じずにはいられない。中にはそれを「ハシゴ」した人もいた。備蓄米はだいたい1人に1袋と限定されているから、次の日も日の出前から別の店で並び、5キロの備蓄米を買ったとドヤ顔で話す人を見ると、日本の農政改革は待ったナシだと実感する。
前日の午後10時からイオンに並んだという人にいたっては、並び始めた時はまだ営業中だったのでは?
そんなことでネットでは、備蓄米が販売される日は国民の休日にすべきだという書き込みを見た。
令和の米騒動の衝撃は日本全体に広がっている。
全国の大学でも、漬物を削ったりしてカレーを300円台に抑える努力が行われているが、刀折れ矢尽きて「400円の壁」を突破された大学もある。
いま国民は米に敏感だから、米について政治家が失言することは許されない。「嫁と米は新しい方がいい」とまではいかないが、「コメを買ったことがない」と発言して辞任に追い込まれた農水大臣もいたし、備蓄米を「動物のエサになる」と言って批判が殺到し、釈明だけでは済まされず、最終的に謝罪した野党の党首もいた。
ではここで、昭和の日本兵が体験した食糧不足を紹介しよう。極限の状態になると、人は米を残したまま餓死するらしい。

フィリピンで日本軍と戦う米兵
戦時中、日本陸軍の兵士としてフィリピンに派遣され、ルソン島で米軍と戦い、終戦後は帰国して評論家として活躍した山本七平氏が、従軍時に見聞きしたことを『ある異常体験者の偏見』(文春文庫)にまとめている。
その記録によると、当時フィリピンにいた日本兵の間で「末期米」と呼ばれるものがあった。
フィリピンの戦い(1944年〜45年)では、米軍との戦闘よりも食べ物が無くなり餓死する日本兵のほうがはるかに多かった。
ジャングルを行軍していると、友軍の死体が転がっていることがよくあり、その時、死体が身につけている荷物を探すと、一握りの米が見つかることも珍しくなかった。それが「末期米」だ。
食料がまったく無くなった状態を考えると、不安で精神がやられてしまうから、「まだ米がある」と自分に言い聞かせて行軍を続け、そのまま力尽きて倒れた兵士が多かった。
ほんの一握りの米を「お守り」のように大切に持っていて、結局、それには手をつけなかったため、荷物の中から末期米が見つかることがあった。
みんな栄養失調状態にあったから、地面に横たわった日本兵を見ると、すぐに末期米を探すのが習慣になっていたという。
そして、それを「奪う」ことで、生きて日本に帰って来られた人も多かった。他人の希望を食べないと、生き延びることができなかったのだから、これは仕方がない。フィリピンの戦いでは、人肉食まであったと言われている。
それから約80年が過ぎて、現代では、フィリピンで戦う日本人なんて、2次元ぐらいでしかいない。近所のカレー屋や食堂で、ご飯の大盛りやおかわり無料が廃止になったとSNSで嘆いてもいいし、「支援者の方々がたくさん米をくださる。まさに売るほどあります」と言う政治家に「朝4時から並べ!」と怒ってもよし。
でも、令和に生きているというだけで、すでに「歴史ガチャ」の勝者であることは知っておいていい。

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