【唐の滅亡】文字どおり悲しい哀帝と、悪逆非道の朱全忠

日本の文化で6月1日は「衣替えの日」で、冬服を夏服に交換する日となっている。
歴史をさかのぼると、907年のこの日、中国史では重要な王朝の交替が行われた。朱全忠が哀帝(あいてい)に皇帝の座を譲らせてを滅ぼし、彼自身が皇帝に即位して後梁という新王朝を開いた。
*より細かく言うと、後梁は6月2日に成立したらしい。

唐は618年に李淵が隋を滅ぼして建国した国で、李淵が初代皇帝となり、その子孫が代々皇帝となって中国を治めた。
「哀帝」という不幸フラグみたいな名前は、彼が死んだ後に朱全忠がつけた名前(諡号:しごう)で、彼の本当の名前は「李祝(しゅく)」という。しかし、唐王朝最後の皇帝である彼の人生は「李呪」のほうがふさわしいほど悲惨だった。

 

朱全忠(852年〜912年)

 

唐の最盛期は、世界でも最高の文明国とされるほど繁栄し、その節は日本も遣唐使が本当にお世話になった。
日本は630年に初めて遣唐使を派遣し、その後200年以上にわたって何度も遣唐使を西安に送り、唐の先進的な制度や文化を学んだ。最後の遣唐使が派遣されたのは838年で、その後、菅原道真が反対して遣唐使の派遣は中断され、そのまま再開されることなく、907年に唐は滅亡した。
道真が「ちょっとマテ」と言った理由は、そのころの唐は安史の乱(755年〜)をはじめとする地方の反乱で、中央政府がコントロール能力を失っていたからだ。もし、そんな混乱した唐に遣唐使を送ったら、、一体どうなるか? 貴重な品物を運んでいる彼らは盗賊に襲われるリスクが高く、日本は貴重な人材を失う危険性も大きい。つまり、超ハイリスク・ローリターンでかなりコスパが悪かったため、日本は遣唐を検討し、結局はやめた。

安史の乱によって唐のヒットポイントは半分に減り(想像)、874年の黄巣の乱でHPは10%以下に激減した。この乱で活躍したのが朱温(後の朱全忠)だ。
彼は若いころ、親戚の劉崇という金持ちの家で働いていたが、乱暴な性格で村人たちからは嫌われていた。しかし、劉崇の母親だけは彼に優しく接した。マンガではこういう場合、自分を支えてくれた人の思いに応え、努力して偉人となって恩返しをするというハートウォーミングな展開になるのだろうけど、朱温は違った。このような話が感動的に描かれることが多いが、朱温は違った。劉崇の母親だけがボンクラで、村人は彼の悪逆な本質を見抜いていた。

 

唐軍が攻勢に出て黄巣の軍が不利になると、朱温は唐に寝返り、唐軍に降伏した。これを知った唐の皇帝は「天からの贈り物だ!(是天賜予也)」と歓喜したという。こうして「官軍」となった朱温はかつての仲間と戦い、黄巣の軍を長安から追い出すことに成功した。
この知らせに皇帝は歓喜雀躍し、朱温に「全忠」の名を与えた。これは「皇帝に忠誠を誓う」という意味だから、皇帝が彼をとても信頼していたことがわかる。

黄巣の乱が鎮圧されると、朱温改め朱全忠は唐を裏切り、政敵を排除した後で唐を乗っ取ろうと計画した。このころの彼は実質的な最高実力者で、朝廷内で抵抗できる者はいない。
904年には、皇帝・昭宗(しょうそう)を殺害するよう、仮児(養子)である朱友恭らに命じた。昭宗は宮中を逃げ回った末に捕まって殺された。その後、朱全忠は「皇帝殺し」の罪を朱友恭らに押し付けて彼らを始末した。養子とはいえ、朱友恭は自分の子どもだ。

朱全忠は唐を奪うマンマンだったが、「簒奪者」の汚名を着せられることは嫌だったので、「禅譲(ぜんじょう)」というステップを踏むことにした。
禅譲とは、自分よりも徳があり、皇帝としてふさわしいと思う人物にその地位をゆずる美しい行為を指す。しかし実際には、強大な力を持つ者に強制されるパターンが多かった。
朱全忠は、昭宗の子である李祝(後の哀帝)を新たな皇帝に即位させ、他の兄弟9人を殺害する。さらに、哀帝の母・何皇后も殺し、哀帝には平民に身分を落とす勅令を出させた。何皇后は中国史上、実子によって廃位された唯一の皇太后となり、哀帝はそれを命じた唯一の皇帝となった。

朱全忠は朝廷を完全に支配すると、哀帝に皇帝の座を自発的に譲ることを強制し、907年に禅譲させて自分が新皇帝に即位した。これによって唐は滅び、後梁が始まる。同時に、朱全忠は名前を「全忠」から「晃」に変えた。もう、彼が仕えるべき皇帝はこの世にいなかったから。
用済みとなった哀帝は、地方の王に降格され、翌年908年には毒殺された。彼はまだ16歳だった。
残酷な性格をしていて、悪逆非道なやり方で頂点に立った朱全忠には、それにふさわしい最期が待っていた。彼が病に倒れると、息子がお見舞いではなく、殺しにやって来た。皇帝になって5年後の912年、朱全忠は息子に殺害された。最後の言葉は「早くお前を殺すべきだった」とか。

 

朱全忠が野心的だったのはいいとしても、その生涯は裏切りや無慈悲な殺害といった「闇要素」が多すぎる。しかも、彼は息子の妻と肉体関係を結び、道徳的にも破綻していたため、後世の評価は基本的に悪い。
北宋の政治家で歴史家の欧陽脩(1007年〜1072年)は、「梁の悪は極まった。盗賊から身を起こして唐を滅ぼすまで、その遺毒は天下に広まっている」と非難した。
また、毛沢東は朱全忠について、「彼は敵に囲まれた状況にあった。彼は曹操に似ていたが、曹操よりも狡猾だった」と評している。

ソース:中国のオンライン百科事典・百度百科の「朱温

 

 

中国皇帝の“しるし” 王朝・元号・天壇での祈り・九五の尊

日本と中国の歴史:「皇帝≒将軍」で、天皇はオンリーワン

【中国の偉大な進化】人を殺して埋める殉葬から兵馬俑へ

【皇帝のため息】日本と中国・韓国との違いは“易姓革命”

日本と中国の歴史の違い 「唐王朝を見たかったら京都へ行け」

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

コメント

コメントする

目次