日本とヨーロッパ史の違いは、「神の意思」による宗教戦争の有無

7月30日は1570年に日本で「姉川の戦い」があった日で、その150年前の1419年にはヨーロッパで「フス戦争」が始まった日でもある。この2つの戦いをみると、日本とヨーロッパの歴史や考え方の違いがわかる。

姉川の戦いは、織田信長&徳川家康と浅井長政&朝倉義景(よしかげ)の戦いで、今の滋賀県北部でおこなわれた。
この時、信長の配下には秀吉もいたから、浅井と朝倉が有力大名だったしても、戦国時代の三英雄がそろったチート軍団を相手に勝てるはずはなかった。
この戦いは、織田・徳川連合軍の勝利に終わり、浅井と朝倉はその後滅亡する。
日本の歴史では、こうした大名同士の覇権をめぐる戦いなら何度もあったが、フス戦争のような宗教戦争はなかった。宗教の違いが原因で対立や衝突はあっても、ヨーロッパのように大規模な軍事衝突はおこらなかった。

 

ヤン・フスはチェコ出身の神学者で、カトリック教会を厳しく批判し、宗教改革の先駆者となった人物として知られている。
当時、ヨーロッパ世界で強大な権力をもっていたカトリック教会が、「甘んじて批判をお受けします」という謙虚な姿勢を見せるわけがなく、フスの言動に大激怒した。
カトリック教会はフスを「異端」と認定し、1415年に彼を処刑した。フスは「悪魔」として杭に縛り付けられ、生きたまま焼き殺された。

 

後ろ手に縛られ、火刑に処されるフス。
燃料となる藁(わら)や木が彼の首のあたりにまで積まれ、火をかけられた。彼の遺体(遺灰)が支持者の「聖遺物」となることを防ぐため、ライン川に投げ込まれた。

 

フスが処刑された後、1419年にボヘミア王国(今のチェコ)で、彼がはじめた新しいキリスト教のグループ(フス派)の信者たちが、カトリック教会と神聖ローマ帝国に対して反乱をおこす。このフス戦争は25年間続き、最終的にカトリック側が勝利を収めた。
フス派は火器を効果的に使って、敵を苦しめた。彼らが使った手持ちの火器を指すチェコ語「píšťala」が、後に英語の「pistol(ピストル)」の語源になった。

 

フス派は、カトリック教会が贖宥状(免罪符)を売ることを批判し、それを悪魔の行為として描いた。

 

1431年にフス戦争は終結したが、ボヘミア地方は完全に荒廃し、その暗い影響は長く続いた。1400年ごろに280〜330万人いたとされる人口は、1526年には150万〜185万人に激減したという推計もある(Hussite Wars)。
カトリック教会とフス派では考え方が違っていても、どちらも同じ神を信じ、聖書を信仰の拠り所としていた点では共通していた。

その聖書(旧約聖書)には「ヨシュア記」があり、そこには、日本人の常識では考えられないような恐ろしい内容が書かれている。
ヨシュアはモーゼの後継者で宗教的指導者として、イスラエル民族を率いて神から与えられた約束の地・カナンを武力で征服した。ヨシュア記は、いわばその征服の物語になる。

ヨシュアとイスラエルの民の最初のターゲットとなったのは、カナンの地にあった壁で囲まれた町「エリコ」だった。神はイスラエルの7人の祭司に角笛を吹き鳴らすよう命じ、その通りにすると城壁が崩れ落ち、イスラエルの兵士たちが突入し、エリコの人々を皆殺しにした。イスラエル人は神の律法にしがって、男も女も、子供も老人も、牛や羊、ロバまでも殺し尽くす。

Following God’s law, the Israelites killed every man and woman, the young and the old, as well as the oxen, sheep, and donkeys.

Fall of Jericho

エリコの戦い

 

エリコの虐殺には例外もあった。ラハブという売春婦はイスラエルに協力したので、彼女の家族と親戚だけは命を助けられた。
最終的にカナンの地を支配したイスラエル民族にとって、この「エリコの戦い」は栄光のはじまりだったが、カナンの人々にとっては地獄の門が開かれたようなものだった。カナンの地では、この後も同じような惨劇がおこなわれた。

 

日本の神道や仏教には、神(仏)が異教徒の死を望み、信者がそれを実行する話なんてない。
昔、ヨーロッパ人はそれを正義と考え、敵対する人間を「悪魔」とみなし、殲滅しようとした。フス戦争もその一つで、宗教戦争はヨーロッパの歴史に多く存在する。ドイツの三十年戦争やフランスのユグノー戦争は特に有名だ。
一方、日本の歴史には、「姉川の戦い」のような大名同士の戦いや、それによって一族が全滅したことはあっても、大名が純粋に宗教的な正しさを求めて戦ったことはなかった。
日本人は異なる信仰に対して寛容(というか無関心)で、信長と敵対した本願寺のように、政治的権力を握ろうとしないかぎり、宗教勢力は基本的に放置されていた。
「神の律法にしたがって戦う」という表現は、どう見ても日本的ではない。
日本とヨーロッパの歴史の大きな違いは、宗教戦争があったかどうかにある。

 

 

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

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