浜松駅の北口を出ると、「家康くん」がにこやかな顔で迎えてくれる。
歴史上の徳川家康は、こんなゆるキャラとは違って、腹黒いイメージがある。たとえば大阪の陣では、豊臣側と和睦したフリをして罠にはめ、最終的には滅ぼしてしまった。
家康は陰険な性格をしていて、闇要素が多いから、現代の日本人からはあまり好かれていない。
しかし、家康にはとてもオープンな一面もあった。今回は、家康にあった光属性の部分を紹介しようと思う。光の部分を紹介しようと思う。
「初めてメキシコを訪れた日本人は誰か?」とAIに尋ねると、慶長遣欧使節団の支倉常長(はせくら つねなが)だという答えが返ってきた。
彼は仙台藩の藩士で、主君である伊達政宗がヨーロッパに遣欧使節を送ることを決め、それに支倉が選ばれた。支倉は宣教師のルイス・ソテロとともに船で太平洋を渡り、スペインに到達する途中、1614年にメキシコに立ち寄った。
ちなみに、支倉常長はカトリック教徒になり、有色人種としてローマ貴族になった、世界でただ1人のかなりレアな人物だ。
しかし、AIの答えは間違っている。
支倉より先に、1610年のきょう8月1日、田中勝介(しょうすけ)が徳川家康の命を受けて、メキシコ(当時はスペイン領のヌエバ・エスパーニャ)へ向けて出航し、同じ年の11月に到着したからだ。
家康はヌエバ・エスパーニャとの貿易を望んでいたが、ヌエバ・エスパーニャ側はキリスト教の布教を前提としていたため、合意には至らなかった。しかし、日本とヌエバ・エスパーニャ、ひいてはスペインとの友好関係を築くことはできた。

友好の証として、スペイン国王フェリペ3世が徳川家康へ贈った洋時計。これは日本に現存する最古の時計でもある。
タイとの交流を始めたのも家康だ。
当時、日本とタイはお互いに相手を必要としていた。日本では関ヶ原の戦いが終わり、合戦が無くなってくると武士たちは活躍の場を失っていった。一方、タイのアユタヤ朝は隣国のビルマと戦っていて、強く勇敢な戦士を必要としていた。
マッチングアプリで言うなら、お互いに「いいね」を送り合って、マッチングが成立した状態だ。アユタヤの王が経験豊富な武士を傭兵として雇い、多くの武士が海を渡ってタイへ行った。山田長政もその人で、彼はタイで大活躍し、王の信頼を得て上級貴族になった。
そんな日本とタイの良き流れを作ったのが徳川家康だ。
1606年、家康はタイとの国交を結ぶため、ソンタム王に手紙を送った。以前のタイ王国大使館のホームページには、ソンタム王も家康に手紙を送り、両国の友好関係が成立したという記述があった。

アユタヤ王国に雇われた日本人の兵士
家康は日本とイギリスとの関係も築いた。
1600年、関ヶ原の戦いがあった年、オランダ船が今の大分県に漂着する。その船にイギリス人の航海士ウィリアム・アダムスが乗っていて、家康は会って話をすると彼を気に入り、武士に取り立てて、自分の外交顧問にした。武士となったアダムスは「三浦按針」と名乗る。
ウィリアム・アダムスは日本に初めて来たイギリス人で、初めて武士になったヨーロッパ人であり、サツマイモを日本に伝えた人物でもある。
三浦按針は本国に手紙を送り、家康が貿易を望んでいることを知らせると、イギリス側も「その気」になり、使者を送ることを決める。
それで、イギリス王ジェームズ1世の使者セーリスが来日し、駿府城にいた家康に国王の親書を渡した。英文の書簡をアダムスが日本語に訳し、内容を理解した家康はセーリスに貿易の許可証である朱印状を渡した。これで、日本とイギリスの国交が結ばれ、貿易も認められた。
家康からジェームズ1世に送った手紙には、こんなことが書かれていた。
「我が国との友好を深め、お互いに商船を往来させようというご提案に賛成いたします。両国は、潮と雲により、何千里も隔てられていながら、実は密接な間柄になりました。」
徳川家康は豊臣家には陰険な態度で接したが、海外に対してはオープンで、外国人に友好的な態度を示した。メキシコ(スペイン)、タイ、イギリスと友好関係を築いたのはその証拠だ。しかし、その後、江戸幕府は鎖国政策を強め、これらの関係は途絶えてしまった。
でも、家康には「家康くん」のように、開放的な一面があったことは知っておいてほしい。
参考:家康公を学ぶ「大航海時代の駿府の家康公 – イギリス国王使節、駿府へ」
東京外国語大学のウェブサイト「日タイの文学作品にみる山田長政」

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