日本に住んでいたアメリカ人と話をしていて、彼女の誤解を正すと、「えっ! 江戸時代、日本の首都は江戸じゃなくて京都だったの?」と驚かれた。
天皇が京都にいたことは知っていたが、将軍をトップとする幕府が江戸で政治をおこなっていたから、彼女は日本の首都は江戸だとずっと思っていた。
そのアメリカ人の大先輩で、幕末の日本にやってきて、徳川幕府に開国を要求したアメリカの軍人ペリーは、日本の政治体制についてこう書いている。
「日本には、二人の皇帝が並び立っているという奇妙な特徴がある。ひとりは世俗的な役割を、もうひとりは宗教的な役割を担っている」
当時の西洋人からしたら、日本では天皇と将軍という「二人の皇帝」による二重統治が行われていたと考えてもおかしくない。
江戸時代、実質的な都は江戸で、名目的な都は京都だったから、現代の日本の歴史をすこし学んだ外国人が、江戸を首都と誤解するのは自然というか当然だ。
では、これから東京が名実ともに日本の「顔」となった歴史を書いていこう。

明治天皇の東京行幸
東京は、1868年(明治元年)のきょう9月3日にうまれた。
まずこの年の1月、薩摩・長州・土佐藩を中心とする新政府軍と旧幕府軍がぶつかる戊辰戦争がはじまり、旧幕府側が降伏して、5月に江戸城が無血開城され、新政府軍に明け渡された。
9月3日、天皇は江戸の地名を「東京」とし、自らも東京で政治を行うことを宣言した(東京奠都)。
11月には江戸城は「東京城」と改称され、その後さらに「皇城」と変更され、現在の皇居となった。
1869年、明治天皇は京都御所を出発し、5月9日に皇城に到着(東京行幸)。同時に、幕府に代わって、全国の大名や国民を支配する政府組織「太政官(だじょうかん)」も京都から東京へ移された。
日本最高の権威である天皇がいて、政治を行う首都の機能も整ったことで、東京は名実ともに日本の首都となった。
ペリーの言い方を借りれば、世俗的な役割を持つ皇帝と宗教的な役割を担う皇帝がひとつになったわけだ。
戦後、1950年に制定された「首都建設法」に、「東京都が国の首都である」と明記された。しかし、この法律は1956年に廃止され、現在の法律では東京は日本の首都と定められていない。
それでも大した問題ではない。現実として、東京が日本の顔であることは世界中が認めている。
ペリーが指摘した「二人の皇帝が並び立っているという奇妙な特徴」はなくなり、1869年、東京は日本の首都となったのだ。

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