革命と分裂の近代史からわかる、中国人の自我の強さ

9月10日は、孫文をトップとする広東軍政府が成立した日。
なので今回は、中国の革命と分裂の近代史からわかる「中国人の自我の強さ」について書いていこう。

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日本人から見た中国人の性格

上海と広州で、合わせて5年間ほど働いていた友人の日本人に、中国人の仕事のやり方について聞くと、彼はこんな不満をもらした。

・報告、連絡、相談の「ホウレンソウ」をあまりしないため、気がつくととんでもない事態になっていることがある。
・周囲の人と連携しながら仕事を進めるのではなく、自分1人で判断し、実行しようとする。

彼の経験からすると、仕事における中国人のマイナス面は、個人プレーに走り協調性に欠けることにある。これは彼だけの見方ではなく、ほかの多くの日本人も同様に感じていることは「中国人 日本人 仕事 違い」で検索すればわかるはずだ。
もちろん、中国人には長所もたくさんあるが、全体の利益のために自分の気持ちを抑えることは苦手だ。そんな自我の強さは歴史にもあらわれている。

中国の第一革命

1911年、孫文らが中心となって辛亥革命を起こし、清朝を倒して2000年以上も続いた皇帝が統治する政治体制を終わらせた。翌年1912年、孫文を臨時大総統とする中華民国を樹立。
この辛亥革命を「第一革命」という。
しかし、中国人はまとまることができなかった。

中国の第二革命

今度は袁世凱(えんせいがい)という野心家は権力を握り、孫文らと対立する。孫文ら国民党は袁政権を打倒するため、1913年に武装蜂起したが、逆に返り討ちにされ、孫文は日本へ亡命した。
この動きを「第二革命」という。

ちなみに、孫文は中国や台湾では一般的に「孫中山」と呼ばれている。これは、彼が日本で「中山樵(きこり)」と名乗っていたことに由来する。

 

孫文

中国の第三革命

武力で政敵を一掃した袁世凱は大総統となり、北京政府を成立させた。しかし、この程度では彼の底なしの野心を満たすことはできなかった。
1915年、彼は「皇帝」となり中華帝国を建国する。袁世凱は分裂状態にあった中国をまとめるには、1人に権力を集中させる君主制が必要だと考え、自分が皇帝になろうとしたという見方もある。

※袁世凱が皇帝を自称しただけで、正式には認められていない。中国のラストエンペラーは清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀だ。
現在、この一族の血を引く「愛新覚羅 維」さんが東京で眼科医をしている。

 


袁世凱が中華帝国の樹立を宣言したことで、中国南部でいくつかの軍閥(軍人を中心とする政治勢力)が反発し、独立を宣言した。またもや、中国人は1つになれなかった。
袁世凱は軍閥による「護国軍(雲南護国軍)」と戦ったが、仲間の離反もあって敗北する。できたばかりの中華帝国はあっさり崩壊し、袁世凱は失意のうちに病気で亡くなった。
中華帝国は1915年12月から1616年3月まで、約3ヶ月しか存在しなかった。激戦区にオープンしたラーメン屋でも、もう少し長く続くと思うのだけど。
とにかく、この動きを第三革命(護国戦争)という。

終わらない分裂と混乱

いっぽう、孫文は南部の広州で北京政府に対抗し、広東軍政府を樹立。しかし、それでも中国人はまとまることができなかった。何人かの実力者は孫文の下につきたくないと反発し、広東軍政府と対立するようになる。
結局、中華民国内の分裂と混乱はその後も長く続いた。
自分がトップになりたいという中国人の自我の強さは、革命と分裂が繰り返し起きた近代史が証明している。

 

 

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

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