織田信長は芸能の『幸若舞(こうわかまい)』の演目のひとつ、『敦盛』(あつもり)が好きだった。
※『敦盛』は能ではない。
信長は今川軍との運命の一戦、桶狭間の戦いの前夜に、『敦盛』の次の一節を謡(うた)って舞ったという話がある。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」
(意訳)人の一生は一瞬のように短く、夢幻のように儚(はかな)い。この世に生まれて、滅びない者などいない。
この運命は国も同じだ。歴史を見てみると、どんなに繁栄した大帝国や王朝にも必ず終わりが訪れた(例外はある)。
これから、同じ原因で地上から消えた3つの帝国と皇帝を紹介しよう。
100年ほど前、10月29日にこんな出来事があった。
1918年、ドイツで多くの海軍水兵が出撃命令を拒否した。
1923年、トルコでムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)が初代大統領に就任し、トルコ共和国が成立した。
この2つに共通する重要なワードが、1914年にはじまり1918年に終わった「第一次世界大戦」。
この大戦の末期、ドイツでは「敗北必至」という雰囲気が高まっていた中、海軍の兵士がイギリス艦隊との決戦を命じられたが、約1000人がそれを拒否。それは無謀な作戦で、兵士は無駄死にするだけだと考えたからだという。
この兵士たちの出撃拒否がきっかけでドイツ革命がはじまり、最終的には皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、オランダへ亡命した。こうして帝政ドイツが打倒され、ワイマール共和国が成立した。
ちなみに、バイエルン王国でも革命が起こり、ルートヴィヒ3世が退位した。
1299年にアナトリア(現トルコ)で誕生したオスマン帝国は、1453年に東ローマ帝国を滅ぼし、最盛期には北アフリカ、中央ヨーロッパ、アラビア半島に領土を持つ大帝国となった。しかし、1922年にその栄光は終わった。
オスマン帝国も第一次世界大戦で敗北し、広大な国土はイギリス、フランス、イタリアなどに占領され、帝国は解体されてしまう。祖国が消滅する危機を迎えた時、英雄ムスタファ・ケマルが登場した。彼はみずからオスマン帝国を滅ぼし、トルコ共和国を樹立。このトルコ革命によって、皇帝メフメト6世はマルタへ亡命した。
第一次世界大戦は1914年の銃声で始まった。
その年の6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者とその妻がサラエヴォを訪問中、プリンツィプという青年に銃殺された。
(サラエヴォは当時オーストリア領で、今はボスニア・ヘルツェゴビナの首都になっている。)
このサラエボ事件がきっかけでオーストリアはセルビア王国に宣戦布告し、ヨーロッパのさまざまな国が加わって世界大戦に発展していった。
カール1世は第一次世界大戦中の1916年に即位する。オーストリアはこの大戦に負け、退位を求められたカール1世は拒絶したが、結局はスイスへの亡命に追い込まれる。
神聖ローマ帝国皇帝を生み出し、ヨーロッパでもっとも有名で強大だったハプスブルク家は、これで約650年の歴史を終えた。

オーストリアの「夜明け」を描いた絵。
始祖の王ルドルフ1世を先頭、カール1世を最後として、ハプスブルク家出身の皇帝がさみしそうにがオーストリアから去ってゆく。
第一次世界大戦が世界に与えた衝撃は絶大で、ドイツ・トルコ・オーストリアの帝国と三人の皇帝を地上から消し去った。
戦争で負けた国の君主に国民の怒りが集中し、もはや国内に居場所が無くなるケースは他の国にもある。しかし、日本はその例外。世界中の皇室や王室は夢幻のように滅びたが、日本の皇室はそれを経験していない。古代から一度も変わることなく、現在まで続いている。
「滅せぬもののあるべきか」が通じないのが日本だ。

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