11月5日は、1941年に天皇、首相、大臣、軍のトップが集まって御前会議が開かれ、「帝国国策遂行要領」が決定された日。
この決定によって、もし期限内に日本の要求が受け入れられなかった場合、アメリカやイギリスと戦うことが決められた。実際にその通りになり、翌月には真珠湾攻撃がおこなわれ、太平洋戦争がはじまった。ちなみに、昭和天皇は開戦に反対していたと言われている。
当時、日本政府は「欧米の植民地にされていたアジアの国々を解放する」という大義をかかげ、そのための戦いを大東亜戦争を呼んでいた。
(戦争をはじめる側が正義を唱えるのは“あるある”だ。しかし、結果的にアジアの人たちに苦痛を与えた面は否定できない。)
1943年の同じ日(11月5日)、同じく東京で大東亜会議がおこなわれた。
これは「アジア解放」という理想を形にしたもので、日本軍が英米軍と戦って独立させた(と日本が考えた)フィリピン、ビルマ、インド(亡命政権)、それに中華民国、満洲国、タイの首脳が東京に集まり、日本の戦争を支持する大東亜共同宣言が採択された。
ほかにも、こうした日本の理想に共鳴し、大東亜戦争を「聖戦」と呼んだタタール人がいた。

アブデュルレシト・イブラヒム(1857年ー1944年)
アブデュルレシト・イブラヒムはロシア出身のタタール人で、ジャーナリストや旅行家として知られ、熱心なイスラム教徒で深い知識を持っていた。
ロシアがイスラム教徒や非ロシア人への迫害を強めると、イブラヒムは国外に脱出し、19090年に日本へやってきた。彼は伊藤博文や大隈重信などのVIPと会い、講演などで日本人にイスラム教を紹介する。彼は1933年に再び来日し、イスラム教の普及に取り組み、東京回教学院(現在の東京ジャーミイ)が設立されると、そこのイマームとなった。
イブラヒムと日本の相性はとても良かった。
イスラム教を守る立場で、欧米やロシアに批判的だったイブラヒムは、「欧米の支配からアジアを解放する」という日本の主張に共感し、これを支持するようになる。
日本にとっても、東南アジアのイスラム教徒が欧米と敵対し、日本側につくことが理想的だったため、イブラヒムを「同志」と見なした。
つまり、イブラヒムも日本もお互いの利益のために相手を利用したのだ。
東京新聞の記事によると、彼は日本の大東亜戦争を「ジハード(聖戦)」と呼び、イスラム教徒に日本との連携を訴えた。(2021年3月18日)
イブラヒムは日本のムスリム団体の雑誌で、来るべき戦争をジハードと説明。ムスリムは日本人と手を組むよう主張した。
太平洋戦争を「ジハード」と呼んだタタール人宗教指導者がいた 西洋からのイスラム解放を目指して
しかし、彼が自身の活動の結果を見ることはなかった。太平洋戦争中の1944年、イブラヒムは東京で亡くなり、今も多磨霊園で眠っている。

コメント
コメント一覧 (2件)
現在、韓国人が持っている疑いは、天皇が戦犯であるということです。
戦争を決めた人が天皇ということです。ところが、上記の本文では「推測性」ではあるが、天皇は戦争に反対したというが··· 果たして真実は何でしょうか?
いつか安倍元首相が談話文で、「力ですべての問題を解決しようとした過去を反省する」と言ったことを覚えています。仮定は無意味ですが、その当時日本が現在の心を持っていたら戦争はなかったでしょうし、したがって数百万人の日本人、朝鮮人、台湾人、アメリカ人が命を落とすことはなかったでしょう。
また、日本は今でもとてつもない力を持つ立憲君主国家として存在することができるでしょうし、韓国が南北に分かれて互いに殺し合い、死ぬこともなかったはずです。そして韓国は依然として日本の領土であり、韓国内の高校生たちが甲子園大会に出場するために汗を流しているのでしょう。
天皇は政府の決定を尊重するため、御前会議で意見を言わないことが暗黙のルールになっていました。その代わり、こんな歌を詠みました。
「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」
軍部も政府に協力して外交に努力せよ、という意味です。だから、昭和天皇は戦争に反対していたと言われます。
戦後、東京裁判で天皇は裁かれませんでした。戦争責任がないと認められたからです。