白血病になって、「今、生きていることが奇跡」という絶望状態からスタートした水泳の池江璃花子選手。
そのあと努力に努力を重ねて、先日4日行われた女子100メートルバタフライで優勝し、みごと東京五輪出場を勝ち取った。
レース後に涙ながらに語った「苦しくてもしんどくても努力は報われるんだなと思いました」ということばでさえ、”炎上”するのがいまの日本らしい。
東スポWebの記事(4/5)
池江璃花子「努力という定義も難しいな」 “必ず報われる” 発言で物議
あるアスリートが「勝者=報われるという考えだと大半の人の努力が報われていないことになる。正しい努力とは一体何なのか」と発言したことで物議がぼっ発。
でこれにネットの声は?
・勝つために努力してんだから敗者は報われてないやろ
・報いにもランクがあるだけのこと
負けた方もそれなりに報われてるんだよ
努力してなきゃ敗者にもなれない
・これに噛みつかれるとかめんどくせえ世の中になったな
・やれるだけでやって納得できたらええねん。
それがむくわれるってことやん。
・努力できるのも才能なんだよな
発端となったアスリートは「池江選手個人に対しての言葉ではないということだけ皆様にお伝えしておきます」と言っているから、一般論として感想を述べただけらしい。
さて、「努力は必ず報われる」とか「正しい者は救われる」という発想をキリスト教や仏教だったら、どんな解釈になるか?
ユダヤ教やキリスト教の聖書には、ヨブという人物が登場する有名な話がある。(ヨブ記)
ヨブは何というか、人間として”完璧”だ。
彼は善良で高潔で七人の息子と三人の娘に恵まれて、多くの財産がありとても幸福に暮らしていた。
そのとき天界では神とサタン(悪魔)が話をしていて、神はサタンにヨブの信仰心の強さを説く。
するとサタンは「いやいや。それでも不幸が起これば、ヨブの信仰はゆらいできっと神を呪いますよ」と挑発する。
その挑発に乗った神は、「じゃあヨブに苦しみを与えて、彼の信心を試してみればいい」とサタンに言う。
ということで何の罪もないヨブが、「どんな不幸があっても、神を呪いわないかどうか」という神と悪魔の賭けの対象となった。
それで地上のヨブにはまったく理由がわからないまま、とつぜん財産はなくなり、子どもは全員死んでしまう。
でも彼は神を呪うことはなかった。
次にサタンはヨブに皮膚病という苦難を与える。
全身に悪性の腫れ物ができたヨブが苦痛に耐えていると、妻は神を呪って死ぬ方がましだと言う。
信仰を捨てず、ヨブは妻にはこうさとす。
「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
財産がなくなって子どもが死に、全身が皮膚病になったのもすべては神の意思。
神がサタンにそうする許可を与えたことで、義人のヨブは地獄の苦しみを経験する。
ヨブを痛めつけるサタン
あるときヨブに3人の友人が訪ねてきた。
ありとあらゆる不幸がふりかかったヨブに友人は、すべておまえが悪いと言う。
全知全能で完璧な神が間違いをするはずがないから、理由もなく人を苦しめることはありえない。(実は悪魔との賭け)
友人が言うには、神は正しい者には祝福を、罪を犯した人に災いを与えてこの世を完全に正しく裁く。
いまこうしてヨブが苦しみを与えられているのは、ヨブがそれなりの悪を行ったからに違いない。
(実は神が信仰心を試しているだけ)
神は絶対に正しい。
だからおまえが不幸なのは、おまえが罪を犯したからだ。
この考え方によると、ヨブは罪を隠していることになる。
「正しい者は報われる」「正義は必ず勝つ」をひっくり返すと、苦しんでいるのはその人間が悪だから。
「義人は必ず救われる」ということが正しければ、救われないのはその人間が不正を犯した証拠になる。
でも最後までヨブは神を呪わず、信仰を貫いたことで神から祝福されて、財産は増えたし七人の息子と三人の娘が生まれた。
でも、死んでしまった10人がよみがえったわけではない。
これが仏教やヒンドゥー教ならすべてはカルマ、幸も不幸も過去(前世)の行いの結果だから、ヨブは前世で何らかの罪を犯したことになる。
でも、「神という絶対的な存在と非力な人間」という関係性を前提とするキリスト教では、罪がないのに罰を受けるというヨブのような理不尽な目にあう。
「正しい者は救われる」も「正義は必ず勝つ」も「努力は報われる」も仏教的には因果応報の結果で、正しいことや正義を行ったのなら必ず報われる。
キリスト教やイスラーム教では結果は神の意思しだいだから、正しいことをしても救われるかどうか、努力が報われるかどうかは人間にはわからない。
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