「愛、友好、許し、寛容」といった理想を人に説くことは得意でも、それを自分たちが実際に行うのはとてもむずかしい。宗教には、そんな性質がある。これは世界中どこでも同じだろう。
ここでは、長い対立関係が解消され、和解へと動き出したキリスト教と日本仏教の二つの例を紹介しよう。
キリスト教の東西分裂と歩み寄り
キリスト教の歴史で最大の分裂とされるのが、1054年の「大分裂」だ。
キリスト教はもともと一つだったが、少しずつ西方教会(ローマ・カトリック)と東方教会(正教会)に分かれ、11世紀についに関係を完全に断った。
その直接的な原因は、東方教会がローマ教皇の権威を認めなかったことにある。
ローマ・カトリックでは、教皇はイエス・キリストの代理人であり、キリスト教世界の頂点に立つ存在と考えられている。一方、東方教会はそうは考えず、教皇は総主教と立場は同じで、「名誉的なトップ」にすぎないと見なした。
東方教会は教皇に絶対的な支配権を認めず、当時の総主教ミハイル1世は、教皇レオ9世を「父」ではなく「兄弟」と呼んだ。カトリック側にとって、この呼び方は教皇の権威を傷つけるものだったので、受け入れることはできなかったのだ。
そんなことから揉めて1054年に互いを破門し、キリスト教は東西に完全に分裂した。これを「大シスマ」と呼ぶ。
※東西教会が分裂した年については諸説ある。
それから約1000年後、この冷え切った関係に大きな変化が起きた。
1964年、ローマ教皇パウロ6世とコンスタンディヌーポリ全地総主教アシナゴラス1世が、すべてのキリスト教徒にとっての聖地エルサレムで会談した。翌年の1965年、両者は互いの破門を正式に撤回した。
こうして対立は解消され、歩み寄りが始まった。
2001年には、教皇ヨハネ・パウロ2世が129年ぶりにギリシャを訪問し、ギリシャ正教会のトップと会談した。二人は共に主の祈りを唱え、カトリック教徒と一緒に祈ることを禁じてきた正教会のタブーが破られた。
The two leaders then said the Lord’s Prayer together, breaking an Orthodox taboo against praying with Catholics.
Pope John Paul II’s relations with the Eastern Orthodox Church
しかし、東西の教会が「敵」からいわば「兄弟」になっただけで、和解が成立したわけではない。それでも、1000年続いた対立が解消されたこと自体、宗教の歴史では奇跡的な出来事だ。

東本願寺(たぶん)
日本仏教・本願寺の分裂と友好
日本の仏教にも、分裂して長く対立し、戦後になって和解へと動き出した例がある。
それが、西本願寺(浄土真宗本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)だ。
戦国時代、浄土真宗の本願寺は強大な力を持っていた。石山合戦では、織田信長を相手に、現在の大阪城の場所に立てこもり、10年も戦った。
当時の本願寺のトップは顕如(けんにょ)で、信長との和睦を受け入れた。しかし長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張し、父と対立した。
その結果、顕如は三男の准如(じゅんにょ)を後継者に指名する遺言を残して亡くなった。のちに、豊臣秀吉の支援をうけて准如が本願寺を継ぎ、教如は追い出される形になった。
その後、豊臣家を滅ぼして日本の支配者となった徳川家康は、かつて三河一向一揆で苦しめられた経験から、本願寺の強大な力を恐れていた。
そこで家康は、不満を抱えていた教如に目をつけ、京都の本願寺の東側の土地を与え、新しい本願寺を建てさせた。これが東本願寺だ。
こうして1602年、本願寺はキリスト教と同じく東西に分裂し、力も弱まった。家康の政治的な戦略は成功したことになる。
両派は長く対立していたが、1923年、浄土真宗の開祖・親鸞の誕生750周年をきっかけに、西本願寺と東本願寺を含む真宗10派が集まり、「真宗教団連合」が組織された。これを機に、分断の関係は少しずつ友好へと変わっていった。
その流れの中で、大阪にある東西それぞれに属する二つの寺が、2017年に和解した。この出来事はNHKでも番組として取り上げられている。
宗教にとっての「和解」のむずかしさ
キリスト教や仏教にとって、友好、許し、寛容は大切な価値だ。しかし、1000年、320年という長い分裂と対立が解消されても、今も完全な和解には至っていない。
宗教にとって、自分たちの信仰が正しいとする立場を否定することはできない。安易な妥協は堕落になり、信仰そのものを壊しかねない。だから、トップ同士が会って握手をしただけで、すべてが解決するほど、宗教は単純ではない。

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