1882年のきょう7月23日、朝鮮の首都・漢城(現ソウル)で閔妃政権とそれを支援していた日本に対し、朝鮮軍の兵士たちが反乱を起こした。
この「壬午軍乱」によって日本公使館員などが殺害され、朝鮮と日本の関係は大きく変わった。
これから、そのターニングポイントとなった出来事を見ていこう。
朝鮮国王の高宗
まずこの内乱が発生する前、朝鮮王朝は全国的に腐っていた。
国王は官職を売って不当な利益を得て、支配階級だった両班は民衆を死なない程度に搾取していたから、国民の生活は困窮し、人びとは疲れ果てていた。
王から官職を買って役人になった両班は、払ったワイロ以上の金額を民衆からしぼり取っていたから、すべての負担は庶民が負うこととなる。
いっぽう、宮中では誰が朝鮮を支配するかをめぐって、国王・高宗の父である大院君と高宗の妃(きさき)である閔妃(びんひ)が激しく対立していた。
高宗の関心は政治にはない。彼の熱い視線は宮女や妓生(キーセン)に向けられ、「女遊び」に夢中になっていた。
支配階級の両班が寝転がってタバコを吸い、農民たちが働いている様子をながめている。(18世紀)
朝鮮が開国したあと、閔妃を中心とする閔氏政権は国を強化するため、日本に支援を求めた。
(開国させたのは日本だったのだけど。)
日本は朝鮮政府のリクエストに応じ、西洋式の新しい軍隊である「別技軍(べつぎぐん)」を組織すると、日本陸軍がその指導にあたった。
別技軍は給料などの面で良い待遇を受けていたため、それまでの旧式の朝鮮軍の兵士(旧兵)たちにねたまれ、憎悪されるようになった。
これ壬午軍乱のフラグというか、原因となる。
その時代に生き、朝鮮半島を視察した衆議院議員の荒川五郎の記録(最近朝鮮事情)によると、旧兵たちには給米が支給されず、与えられたと思ったら支給米には砂や石が混ぜっていたから、旧兵は激怒して朝鮮の役人を殺し、1882年に反乱がはじまった。
(役人が支給米をネコババし、砂や石を入れて重さをごまかしたのだろう。)
反乱軍は朝鮮王宮に乱入し、閔氏政権の高級官僚を惨殺したが、閔妃はその直前、宮女の姿になって王宮を脱出していたからセーフ。
日本側では、別技軍の教官だった堀本少尉が殺害され、襲撃を受けた日本公使館でも多くの人が殺された。
その時の緊迫した様子を荒川五郎がこう書いている。
暴徒は公使館に火をつけたので公使らは死を決して囲みを衝いて仁川に逃れようとするが、追い打ちに逢い巡査や語学生4人も殺され、公使らは這云の体で走って漁舟に乗り、英国軍艦に救われ、長崎につきこの事を報告した
「明治末期 最近朝鮮事情 現代から見た朝鮮とは Kindle版」
この事件に日本の世論は沸騰し、征韓論がまき起こったが、朝鮮政府が公式に謝罪し、賠償金として 50万円を払うことなどを約束したため、とりあえずは収まった。
*当時の 50万円は現在の約 100億円に相当するという。
日本はこのうち 40万円を朝鮮に返し、国内改革の費用にあてさせたと荒川の記述にある。
襲撃される日本公使館
この反乱を裏であやっていたのが、閔妃の政敵である大院君だ。
兵士らが閔氏政権を倒したあと、当然のように彼が朝鮮の政権を手に入れた。
しかし、ラスボスは中国で、清は大院君を中国へ拉致してしまう。
中国側が彼を拉致した理由は、清国皇帝が承認(冊封)した朝鮮国王から政権を奪う行為は、皇帝を軽んじ、侮辱することになると考えたから。
朝鮮の支配者は清だったから、その許可を得ないで勝手なことをした大院君に重い罰を与えたわけだ。
閔妃は清の支持を受け、再び政治の中心に返り咲いた。
壬午軍乱がおさまったあと、清は自国の官僚(馬建忠)を朝鮮政府の顧問にし、袁世凱が3000の兵士を朝鮮に駐屯させたため、こんな結果を招いたという。
大いに朝鮮の政治に干渉しているので、朝鮮は支那に傾きかえって日本を軽蔑するようになった。(同書)
この軍乱が発生する前、朝鮮政府は「親日」だったのに、状況は逆転して「反日」になってしまった。
日本は賠償金の8割を返還する「やさしさ」を示したけれど、特に意味はなかった模様。
そもそも、そのお金が本当に、朝鮮の民衆のために使われたのかもアヤシイ。
ちなみに、壬午軍乱の2年後に起きた日清戦争で清が敗北すると、後ろ盾を失った閔妃は急速に力を失っていく。
すると、今度は日本と大院君がタッグを組み、1895年に乙未(いつび)事変が発生し、閔妃は殺害された。
この時代の朝鮮政治は本当に激動だった。
パリ五輪開会式で、やらかしましたね。
「我こそは Republic of Korea だ!」といくら主張したところで、Korea には South と North の2国があるというのが現実であり、外国人にとっては、よほどきちんと説明されなければ間違えることもあるということです。