【藤原京】この16年間で、日本国の原点が出来上がった3つの理由

3月11日は708年に、元明天皇が「都を藤原京から平城京に移すぞー」と発表した(詔を発した)日。
*藤原京は現在の奈良県橿原(かしはら)市の辺りにあった都市。

藤原京は飛鳥時代の16年間(694〜710年)しか存在しなかったが、この期間に日本国の原点がつくられた。これから、そういうことができる3つの理由を挙げていこう。

 

◯首都のデザインがつくられた。

藤原京には、中心部に天皇の住まいとなる「藤原宮」が置かれた。これは、それまでの都城にはなかった藤原京の特徴で、この考え方はそれ以降の都にも引き継がれていく。
また、それまでの都は本当に短命で、1人の天皇ごと、または一代の天皇の間で何度か遷宮が行われていたが、藤原京はそんな慣例を打ち破り、持統・文武・元明天皇の3代にわたって藤原宮が使われた。

藤原京は日本の歴史上、初めて条坊制(じょうぼうせい)が採用された首都でもある。
条坊制とは、古代中国の都を参考に、南北中央に朱雀大路を走らせ、南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせ、左右対称になるようにデザインされた都市設計のこと。このシステムが平城京や平安京にも受け継がれたため、現在の京都を表現するとき、よく「碁盤の目」という言葉が使われる。
この条坊制の原点は藤原京にあった。

 

◯「日本」が誕生した。

現在まで続く「日本」という国名はこの時代につくられた。
それまでの国号は倭(倭国)だったが、古代中国の歴史書『旧唐書』には、当時の日本人は「倭」という名称を嫌い、「日本」へ改称したという記述が残されている。
中国人が日本を指して使っていた「倭」という言葉には、侮辱的なニュアンスがあったため、日本人がそれを嫌がり、「日本」という新しい国名を考案したとされる。
「倭国」から「日本」へ

 

◯大宝律令が完成した。

文武(もんむ)天皇の命令によって、編纂(へんさん)が進められていた「大宝律令」が701年に完成。この法典によって初めて刑法・行政法・民法がそろい、日本はこれ以降、法律に基づいて国家運営が行われるようになる。
祭祀を担当する神祇官(じんぎかん)と、それ以外の仕事を担当する太政官(だいじょうかん)の二つの役所がつくられ、さらに太政官の下に中務省や大蔵省、宮内省など8つの省つくられた。この「二官八省」という制度によって、日本の政治が行われるようになる。

つまり、大宝律令の完成は、天皇を中心とした中央集権的な国家体制が整ったことを意味し、それまでの日本(倭国)とは一線を画すことになった。
大宝律令によって整備された政治の仕組みは、さまざまな修正がありながらも、江戸時代が終わるまで続く。
また、日本初の銭貨とされる富本銭(ふほんせん)がつくられたのも藤原京の時代で、日本経済の仕組みも大きく変わった。

 

・日本で初めて条坊制(じょうぼうせい)が採用され、首都のデザインがつくられた。
・「日本」という国名が誕生した。
・大宝律令が完成し、天皇を中心とした中央集権的な国家体制が整った。

以上の3つの理由から、日本国の原点は藤原京の時代に築かれたと言ってヨシ。

 

 

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

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