3月13日は第二次世界大戦中だった1945年に、フランスの植民地だったカンボジアでシハヌーク国王が独立を宣言した日。
そのことについてカンボジア人から、「結果的に日本には感謝している」と言われたことがあるので、これからそれを紹介しよう。
*カンボジアではクメール文字が使われていて、トップ画像には、この小学校は日本人の支援によって建てられたと書いてある。
フランス支配の置き土産であるパン(バゲット)とコーヒーは、現在のベトナム人やカンボジア人の生活の一部になっている。
日本軍は1945年3月9日に明号作戦を決行し、ベトナム・カンボジア・ラオスを独立させた。といってもこの作戦の知名度は低く、有名な地下アイドルと同じぐらいと思われる。英語では「フランス領インドシナにおける日本のクーデター(Japanese coup d’état in French Indochina)」として知られる出来事だ。
太平洋戦争が始まる前年の1940年、フランスの植民地だった仏領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)の北部へ日本軍がやってきた。日仏でインドシナを共同で統治することとなった。
なんで日本とフランスはタッグを組んだのか?
このときヨーロッパではナチス・ドイツがフランス軍を撃破し、フランス中部の町・ヴィシーを首都にして「ヴィシー政権」を成立させ、国名も「フランス国」に変更された。
ヴィシー政府はナチスのコントロール下にあり、フランスの実質的な“ボス”はナチス・ドイツだ。
日本は「日独伊三国軍事同盟」でドイツと友好関係にあったから、仏領インドシナでヴィシー政権と戦うわけにはいかず、フランス側もは日本に協力するべきだと判断し、日本軍を受け入れることにした。
この仏印進駐にアメリカが怒って抗議したが、日本軍は1941年に仏領インドシナの南部にも進出し、アメリカとの関係を決定的に悪化させた。
「そこまで来たら、もう引き返すことはできない」という場所や瞬間をポイント・オブ・ノー・リターン(point of no return)という。日本にとって南部仏印進駐がまさにそれで、これによって太平洋戦争は避けられない未来となる。
日本軍に降伏するフランス兵
ヨーロッパでは1944年6月にノルマンディー上陸作戦が開始され、英米軍などの連合軍が怒涛の勢いで進撃し、8月にヴィシー政権を崩壊させた。日本に友好的だったヴィシー政権は消滅し、シャルル・ド・ゴール率いるフランス共和国臨時政府が樹立されると、仏領インドシナにおける日本とフランスの関係も変わった。
1945年3月9日、日本軍が現地フランス軍に攻撃をしかけ、すぐに仏領インドシナを掌握することに成功。これが明号作戦で、英語圏では「日本のクーデター」と呼ばれている。
明号作戦を開始する直前、日本はベトナム・ラオス・カンボジアに、フランスからの独立を提案する。「いつやるの? 今でしょ」と言われたベトナムの皇帝とラオス・カンボジアの国王はそれに応じ、それぞれが独立を宣言した。
日本が明号作戦を行った理由は、シャルル・ド・ゴール政権と敵対するようになったため、インドシナの仏軍を制圧することにあった。
ほかにも「民族解放」がある。
日本が太平洋戦争(当時の日本は大東亜戦争と称していた)を始めた目的のひとつに、「欧米の植民地支配から、アジア人を解放する」というものがあった。日本がベトナム・ラオス・カンボジアを独立させた動機のひとつに、民族解放の“正義”を実現したかったことがあっただろう。
日本が独立を支援する動きは以前からあり、1943年に松井石根大将がベトナム南部の都市サイゴンで演説し、「日本は米英仏の意思がどうであれアジア諸国を解放する」と言ったことがある。
とはいえ、日本軍の占領統治では多くの人が苦しい思いをしたから、現在の東南アジアの人たちは日本軍を「圧政からの解放者」なんて思っていない。
日本がアメリカに降伏すると、インドシナは再びフランスに支配されるようになって独立も一瞬の夢に終わった。
日本が独立を支援する動きは以前からあり、1943年に松井石根大将がベトナム南部の都市サイゴンで演説し、「日本は米英仏の意思がどうであれアジア諸国を解放する」と言った。
とはいえ、日本軍の占領統治では多くの人が苦しい思いをしたため、現在の東南アジアの人たちは日本軍を「圧政からの解放者」なんてポジティブに考えていない。むしろ反対だ。
日本がアメリカに降伏すると、インドシナは再びフランスに支配されるようになり、独立も「春の夜の夢」のようにむなしく終わった。
ベトナム人は伝統的に漢字を使っていた。「chú ý」の由来は「注意 」で、意味も発音も日本語の注意とほとんど同じ。
10年ほど前にカンボジアを旅行中、日本語ガイドから明号作戦について話を聞き、初めてその出来事を知って驚いた。
ガイドも日本とカンボジアの歴史を勉強したから、その出来事を知っているだけで、現地では、日本がフランスと戦って独立宣言を出したという歴史は闇の中にあるらしい。
カンボジアの独立はカンボジア人自身によって、1953年11月9日に達成され、その日が独立記念日となっている。
だから、ガイドは当時の日本に対して特に何も思っていない。しかし、結果的にクメール語(カンボジア語)が救われたことには感謝の気持ちがあると言う。
そのことについては、英語版ウィキペディアにこんな説明がある。
明号作戦でフランスから独立した後、カンボジア新政府は、フランス植民地政権が強制的に始めたクメール語のローマ字表記を廃止し、公式にクメール文字を復活させた。
The new government did away with the romanisation of the Khmer language that the French colonial administration was beginning to enforce and officially reinstated the Khmer script.
この政策はカンボジア人に支持されて、戦後に成立したどの政府もクメール語をローマ字で表記することはなかった。
ベトナム語はフランス支配によって、元の文字(漢字)は失われ、現在でもローマ字表記になっている。ガイドはそんな隣国を見て、自分たちは昔からのクメール文字や文化を維持することができて、とても良かったと考えていた。タイミング的にもあの時に独立していなかったら、もうクメール文字は失われていたかもしれない。
(その意味ではこれもポイント・オブ・ノー・リターン)
ということで、今でもクメール文字を使い続けていることについては、ガイドは日本の明号作戦に感謝していた。
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