【源平合戦】漢の中の漢・平知盛の最期 「見るべきものはすべて見た」 

4月25日は、日本でひとつの時代が終わった日。
1185年のこの日、壇ノ浦の戦いで平知盛(たいらのとももり)らの軍が源義経らの軍に負け、栄華を極めた平家一族が滅亡した。
この戦いで散った知盛の最後の言葉は「見るべきほどの事をば見つ」で、ボクの中ではラオウの「わが生涯に一片の悔いなし」に匹敵する名言になっている。
現実世界の平知盛も、二次元世界のラオウも漢(おとこ)の中の漢だ。

 

自決する直前、船の上を掃除する平知盛

 

1159年、京都で平治の乱が起こると、平清盛が源氏の棟梁・源義朝(よしとも)を倒し、全国の武士の頂点に立つ。しかし、このとき清盛が義朝の子である源頼朝や義経を「始末」しておかなかったことで、後に破滅的な結果を招く。そんな未来を知らない清盛は、天皇や貴族たちの信頼を得て、貴族として最高の地位である太政大臣にまで出世した。
娘は天皇と結婚して子ども(後の安徳天皇)を産み、清盛は天皇のおじいちゃんになることで天皇家との関係を深め、平家一族は絶大な権力を手に入れ黄金期を迎える。
『平家物語』にはその輝きを表す言葉として、清盛の弟・平時忠(たいらのときただ)が言ったとされる有名な「平家にあらずんば、人にあらず」(平家でなければ、人ではない)がある。ただし、「人ではない」というのは、平家一族でなければ朝廷内で高い地位の人間にはなれない、という意味らしい。だから、平家以外の人間が犬や豚のようなヒト以下の存在と見なされたわけではない。

しかし、転落は早かった。
後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に「平家を討て!」と命じる令旨を出すと、伊豆にいた頼朝がそれに応じて1180年に挙兵し、「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」、いわゆる源平合戦が始まる。
用兵の天才・源義経が加わると、源氏の軍は平家を圧倒して追い詰め、1185年に現在の下関市の海上で壇ノ浦の戦いが行われた。この最後の決戦で破れた平家の人々は希望を失い、次々と海に身を投じる。
清盛の孫である安徳天皇は女官に抱えられると、「この世はつらく、住みづらいところですので、私が極楽浄土へお連れします」と言われ、いっしょに海に飛び込んだ。歴代の天皇の中で、7歳で亡くなった安徳天皇は最も早く崩御した天皇として知られる。また、戦いの中で命を落とした唯一の天皇でもある。

平清盛の四男で、これまで軍を率いて源氏と戦っていた平知盛(とももり)は死を覚悟し、船を掃除した後、「見るべきほどのことは見つ、今は自害せん」と言って海に飛び込んだと『平家物語』にはある。これは、平家の人間が死んでいき、平家一族が滅亡するのを見届けたから、自分がこの世で見るべきものはすべて見たという意味とされる。残っているのは、自分が消えることだけ。
人生でするべきことはすべてやったという知盛は、「わが生涯に一片の悔いなし」と言ったラオウと重なる。最後に場を清めたことを含めて、日本の歴史で平知盛ほどいさぎよく、武士らしい最期を迎えた漢はなかなかいない。

対象的なのが兄の平宗盛(たいら の むねもり)だ。
宗盛も海に飛び込んだが死ぬことができず、泳いでいたところを源氏軍に捕まり捕虜となった。宗盛は鎌倉に連行され、頼朝の前で卑屈な態度で命乞いをして、その場にいた武士たちに笑われたという。その後、宗盛は京都で斬首された。

 

江戸時代に描かれた浮世絵
壇ノ浦で死んだ平氏一族が海底で亡霊になっている。 向かって右にいる薙刀を持った大きな男が平知盛で、彼らはヒトではなくなってしまった。

 

 

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

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