「朝鮮の坊ちゃんは心細いだろう」 明治天皇が李垠に同情したわけ

4月28日は1920年に、朝鮮の王世子李垠(り ぎん、イ・ウン)と日本の皇室の方子女王が結婚した日。
李垠ほど、日韓の時代の変動に翻弄された人はいない。彼は1897年に大韓帝国の皇帝・高宗の七男として生まれ、1910年に韓国が日本に併合された後は、王世子として王族の地位にあった。

いっぽう、方子は梨本宮(なしもとのみや)の家に生まれ、後に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)のお妃候補となるが、最終的には李垠と結婚する。ちなみに、方子はそれをまったく知らなかった。8月のある朝、避暑のために滞在していた別荘で、たまたま新聞を開いたら、自分と李垠の婚約を伝える記事を見つけ、それで初めて知って彼女は大ショックを受けた。
それでも、後に結婚したころの日々を「夢のようにしあわせ」と回想しているから、新婚生活は楽しいものだったと思われる。

 

李垠と方子

 

1907年、李垠は10歳のころ、「人質」として日本に来た。それでも日本での待遇は良く、彼は学習院に入学し、1909年には東北や北海道に行った際には、地元の人々から大歓迎を受けた。
その年の10月26日、満州(中国東北部)で大事件が起こる。伊藤博文が朝鮮問題についてロシアと話し合うためハルビンに向かい、駅を降りたところで朝鮮人の安重根に射殺されたのだ。安重根は韓国では英雄、日本ではテロリストとして評価が分かれる複雑な人物。

当時、山川三千子という女官が明治天皇や昭憲皇太后に仕えていた。戦後、彼女はその経験を記した本(女官 明治宮中出仕の記)を出版し、世間の注目を集めた。
その本によると、明治天皇は伊藤博文の暗殺を聞いて、深いため息をつき、その後、「朝鮮の坊ちゃん(李垠)はさぞ心細いだろう。かわいそうにね」といたわりの言葉をもらしたという。明治天皇は、人質として日本に連れてこられた李垠に同情していて、小さな李垠が伊藤に「爺や、爺や」と慕っていたことを知っていたから、李垠が悲しむことに心を痛めたのだろう。安重根は何ということをしたのか。

明治天皇はその後、皇太子(後の大正天皇)に「これから、(李垠と)仲良く可愛がってあげなさい」と言葉をかけ、皇太子は父の言いつけどおり、李垠と親しく接していた。李垠にとって、伊藤博文の「穴」を埋められたかは分からないが。

 

伊藤博文と李垠(1907年ごろ)

 

 

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

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