5月5日は「端午の節句」で、男の子の健やかな成長を祝う日。男なら、「いつか天下を取ってみたい!」と夢見る瞬間が人生の中であると思う。
チンギス=ハンの孫、クビライ(フビライ)はそれを実現させた。1260年の5月5日、彼はモンゴル帝国の第5代皇帝に即位し、1271年にはモンゴル帝国の国名を「大元」と変え、大都(現在の北京)を都にして元朝を成立させた。その後すぐ、クビライはライバルだった南宋を滅ぼし、中国大陸の覇者となる。彼の支配欲は止まらない。今度は朝鮮半島にあった高麗を侵攻し、高麗軍を打ち破って属国とした後、次は日本に目をつけた。
「日本なんて瞬殺してやるわ」とクビライは思っただろうが、鎌倉武士の奮闘や暴風雨などによって元軍は惨敗し、日本遠征は失敗に終わった。しかし、クビライはあきらめない。1281年に元軍が再び襲ってきた(弘安の役)が、またも日本に返り討ちにされてしまった。それでもクビライは日本征服を夢見て、第三次日本侵攻計画を立てた。しかし、日本の武士はとても強く、日本へ遠征するためには軍船を建造したり、食料を準備したりする必要があり、民の負担は大きかった。そんなことから、クビライは3度目の日本侵攻を断念する。
それとは他に、彼にそう判断をさせた別の要因があった。
友人のベトナム人と話していたとき、ベトナムの自慢や世界に誇れることについて尋ねたら、彼は「人民の強さ」を挙げた。ベトナムは他国に支配されたり侵略されたりしても、民衆は絶対にあきらめず、粘り強く戦い、抵抗運動を続けて最終的には侵略者を追い出すことに成功した。その具体例として、彼は中国とアメリカに勝ったことを指摘し、世界の歴史でこの二国を打ち破った国はベトナムだけだと誇らしげに言う。
さらに、ベトナムはモンゴル軍も撃退している。
1256年と1285年の戦いで元軍は敗北し、クビライは激怒した。そして1287年、3度目の遠征(白藤江の戦い)が行われたが、陳朝ベトナム軍はそれも撃退した。(モンゴルのベトナム侵攻)
*元軍は実はわりとザコ?
クビライはこの3回の戦いの中で、今は交趾(ベトナム北部の陳朝)が元朝の辺境を侵しているため、「日本はとりあえず置いておき、専ら交趾を事とするがよい(宜しく日本を置きて専ら交趾を事とすべし)」と、ベトナムへの攻撃を命じた。結果的に、これが日本への3度目の遠征をあきらめる原因になったという。陳朝ベトナムのナイスアシストだ。
おまけ
1282年、チャンパー王国が元朝に反旗を翻したことがきっかけで、元はベトナム南部のチャンパーへ侵攻した。その原因には、日本が弘安の役で元軍を破った後、チャンパー王国に使者を送り、「元朝と戦え!」と促したからだと南宋の遺臣が書いている。クビライに屈辱を与えた日本が、3度目の襲来を防ぐためにそんな工作をしたかもしれない。

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