「絶対に負けられない戦いがそこにはある」というサッカー日本代表の試合のキャッチフレーズを、日露戦争に当てはめるなら、「そこ」は日本海になる。
1905年5月27日、負ければ日本はロシアの植民地になっていたかもしれない、運命の日本海海戦が行われ、東郷平八郎が率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破した。
それも世界史に輝く一方的な日本の勝利で、イギリスの海軍研究家ウィルソンはこう称賛している。
なんと偉大な勝利であろう。自分は陸戦においても海戦においても歴史上このような完全な勝利というものをみたことがない
「坂の上の雲 (文春文庫) 司馬遼太郎)」
この「完全勝利」でロシアの心は折れ、戦争に勝つことは不可能だと判断し、日本との講和条約に臨むしかなくなった。
東郷平八郎と戦艦「三笠」
日本海海戦で、東郷平八郎は戦艦「三笠」に乗って指揮をとっていて、三笠は連合艦隊で最も重要な旗艦となった。
*『進撃の巨人』に出てくるミカサ・アッカーマンの名前の由来がこの戦艦。
その後、1921年のワシントン海軍軍縮条約で三笠の廃艦が決まり、解体される予定だったが、日本国民がそれを許さなかった。人々の「三笠」を思う気持ちが国を動かし、特別に保存されることが認められた。
しかし、太平洋戦争の後、神奈川の横須賀にあった三笠は、艦内の金属やチーク材などが盗まれ、荒廃していく。それを知って、あるアメリカ人が激怒した。
戦艦三笠(1905年)
太平洋戦争中、アメリカ軍の太平洋艦隊司令長官にチェスター・ニミッツ元帥がいた。彼はマッカーサーほどではないけれど、日本軍にとってはラスボス級の大物だ。
当時の日本国民が歌っていた「比島(フィリピン島)決戦の歌」には、「いざ来いニミッツ、マッカーサー 出てくりや地獄へさか落とし」という一節があったから、名前はそれなりに知られていた。
まぁ結果的に、原子爆弾を2発も落とされ、地獄へ落とされたのは日本だったのだけど。
ニミッツが若き軍人だったころ、東京で日本海海戦の勝利を祝うイベントに参加し、東郷平八郎大将を胴上げした。その後、東郷と10分ほど話をして、ニミッツは東郷平八郎の人間性に魅かれ、後に自伝で感銘を受けたと記している。
太平洋戦争でニミッツは日本の敵となったが、東郷を敬愛する気持ちは持ち続けた。
戦後、かつて東郷平八郎が乗っていた三笠が荒れ果て、ダンスホールが設置されていると知ったニミッツは激怒し、海兵隊に三笠の警備を命じる。
ニミッツは個人的に寄付をしたり、『文藝春秋』に「三笠と私」という文章を載せたりして、三笠の復興のために活動した。
そうした活動のおかげで、1961年に「三笠」の復元が完成し、開艦式が行われた。その際、アメリカ海軍の代表トーリー少将が持ってきたニミッツの肖像写真には、こう書かれていた。
「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」
この偉大な弟子がいなかったら、三笠は今ごろ存在していなかった。
チェスター・ニミッツ
コメント
コメント一覧 (2件)
(別記事からのコメントで)
> 昭和の日本人のほうが原爆被害について身近に感じていたはずなのに・・・
いや、それがそう簡単な話ではないのですよ。
昭和の、特に終戦直後は、原爆による被害が痛ましいゆえに、メディアや新聞等でその被害をあからさまに語られることは、むしろ少なかったような印象が私にはあります。かつまた、そちらの方面には「過激な左翼系の人々」が多く関わっていたせいで、一般的な日本人は避けるという傾向もありました。たとえば「原水禁」と「日本原水協」との政治的対立なんかもその一コマです。
そういう政治的な左翼系思想を離れて、完全に客観的な視点から「原爆による被害」をメディアが報じるようになったのは、ここ最近、つまり今世紀に入ってからのことだと思います。
なるほど。原爆投下に対する日本の見方も、時代によって変わっていたのですね。