【開国 or 鎖国】ペリー艦隊に屈した日本・米艦隊を追い返した朝鮮

6月10日は1871年に朝鮮で「辛未洋擾」という、ほとんどの人には読み方がわからない事件が起きた日。この事件は「しんみようじょう」と読む。
辛未はこの年の干支で、西洋の国が混乱や騒ぎを引き起こした(擾)ことから、朝鮮目線では辛未洋擾(しんみようじょう)、アメリカ目線では「朝鮮遠征」(United States expedition to Korea)と呼ばれている。

当時、朝鮮は鎖国政策をとっていて、アメリカはアジアで影響力を拡大しようとしていた。1854年には日本(徳川幕府)に強く迫って開国させ、外国との貿易を認めさせることに成功した。そのため、アメリカの商人たちは、同じことが朝鮮でも起こり、開国につながることを期待していた。

the United States was attempting to expand its influence in Asia, and in 1854 forced the Japanese government to open Japan to foreign trade. American merchants hoped that a similar process could lead to the opening of Korea.

General Sherman incident

 

上の説明は誤解を招きやすい。
1854年は日米和親条約が結ばれた年で、これにより下田と箱館が開港され、アメリカの船はこの2つの港で食料や飲水、石炭などの必要な物資を購入できるようになった。しかし、日米間の貿易が始まったのは、4年後に締結された日米修好通商条約から。
細かいことは置いておいて、この時アメリカは今度は朝鮮を開国させたいと考えていた。
そんなときに発生したのがジェネラル・シャーマン号事件だ。
1866年、アメリカのジェネラル・シャーマン号が鎖国中の朝鮮にやってきて、貿易を求めたところ、朝鮮側から退去を命じられる。それがきっかけで交戦状態となり、朝鮮側では民間人が死亡し、ジェネラル・シャーマン号側では乗組員が全員殺され、船は沈められた。

 

朝鮮軍を制圧し、指揮官の居場所をあらわす「帥字旗」を奪った米軍

 

アメリカはこの事件の謝罪と通商を求め、軍事行動にでる。1871年にアジア艦隊を朝鮮に派遣し、辛未洋擾(しんみようじょう)または朝鮮遠征が始まり、戦闘でアメリカ側では3人、朝鮮側では約240〜350人が死亡した。
米軍は一方的に朝鮮軍を打ち破ったが、朝鮮側がより近代的な兵器を持った援軍を送ったため、米艦隊は朝鮮から撤退する。
アメリカは戦いには勝ったものの、朝鮮政府から謝罪を受けることも、通商を認めさせることもできなかった。つまり、この戦闘で朝鮮を脅し、開国させようとした試みは失敗に終わる。
最終的には米軍は撤退したから、朝鮮は侵略者から国を守ったことになる。朝鮮政府は鎖国政策をさらに強化し、世界から孤立していった。

そんな閉塞状態をぶち破ったのが日本。
辛未洋擾から5年後、1876年に日朝修好条規を結び、朝鮮は鎖国政策をやめて開国に応じた。
歴史の「タラレバ定食」はおかわり自由だから、以下、勝手な想像を書いていく。
もし、幕末の日本がペリー艦隊と戦って、辛未洋擾のように大ダメージを受けても追い返すことに成功していたら、きっと江戸幕府も同じように鎖国政策を強化したはず。しかし、それでは最終的には「負け組」になっていた。
19世紀後半は、弱い国が強国に支配される帝国主義の時代で、早く開国して国を近代化させることが生き残るための必須条件だった。形の上ではペリー艦隊に屈したとしても、開国に応じた日本は正解だった。

 

 

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

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