【ヴァレンヌ事件】フランス革命のターニングポイントとなった件

もし、最悪の選択をしても、状況によっては取り返しがつくこともある。でも、最悪のタイミングでそれをしてしまうと、致命的な結果につながる。今回は、それをしてしまった「しくじり先生」、フランス国王ルイ16世を紹介しよう。

 

7月14日はフランスの歴史でとても重要な日だ。
まず1789年のこの日、パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、政治犯を解放してフランス革命が始まった。そして翌月8月には、「人間は生れながらにして自由かつ平等である」、「すべての市民は、法の下の平等にある」といったフランス革命の理念をまとめた「フランス人権宣言」が発表された。
そして1年後の1790年7月14日、革命と国家統一を祝って「連盟祭」が開催された。(Fête de la Fédération

これら2つの画期的な出来事があったから、現在のフランスでは7月14日に「パリ祭」が開催され、お祝いの花火が打ち上げられたり、軍事パレードが行なわれている。位置づけとしては、この日が建国記念日とされているから、今のフランスの誕生日だ。

1790年の連盟祭では、革命を主導した国民議会のすべての議員がこう誓った。

「我々は、国家、法律、そして国王に永遠に忠実であり、国民議会で決定され国王が承認した憲法を全力で守ります」

国王ルイ16世も、自分の上に憲法があり、国民と同じように憲法を守ることを誓った。彼は、それまで王の権利は神から与えられたものだと主張し、国のトップに君臨していた。しかし、この誓いを立てたことで、彼は憲法によって権力が与えられたことを認める。これで、フランスは立憲君主制の国になった。

 

逃亡に失敗し、拘束される国王一家

 

政治体制が決まって、新しいフランスが誕生した重要な時に、国王一家はパリから逃げ出してしまった。これが1791年の「ヴァレンヌ逃亡事件」だ。しかし、フランスを抜ける前に見つかり、国王一家はパリに連れ戻され、テュイルリー宮殿に軟禁されてしまう。

ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、どうしてヴァレンヌ事件を起こしたのか?
その理由について、AIは「革命の進展と民衆の反感を恐れ、王権を回復するために国外脱出しようとした」と説明している。英語版ウィキペディアには、「行動の自由と身の安全を確保するためだった」と書かれている。
動機が何であれ、国王夫妻がフランスが心の底から嫌になったことは確かだ。

しかし、この判断は間違っていた。
国王が国を捨てたということは、革命を否定したことを意味する。この事件によって、パリの民衆の王政に対する見方は大きく変わり、国王と王妃への敵意が増したという。

This incident was a turning point after which Parisian hostility towards the monarchy, as well as towards the King and Queen as individuals, became much more pronounced.

Flight to Varennes

ギロチン

 

全体の流れから見れば、ヴァレンヌ事件がフランス革命のターニングポイントとなった。
これで国王の権威は失われ、ルイ16世は1793年1月、マリー・アントワネットは同年110月にギロチンで処刑された。
国民が「国王に永遠に忠実である」と誓い、国王が憲法を守ると宣誓したすぐ後に、彼が国民を裏切ったのは、最悪のタイミングで最悪の選択をしたと言えるだろう。
歴史の「タラレバ定食」はおかわり自由。ルイ16世に不満があっても、もう少し国民のために政治をする姿勢を見せていれば、こんな最悪の結果を回避できたのでは?

ちなみに、7月14日は1795年に「ラ・マルセイエーズ」がフランスの国歌になった日でもある。

 

 

ヨーロッパ 「目次」

ギロチン処刑が「フランス革命の理想」を象徴している理由

【テロの由来】自由・平等のフランス革命ではじまる恐怖政治

【レストランの始まり】フランス革命が外食文化を生んだワケ

明治維新とフランス革命:欧米を驚かせた日本社会の急速変化

フランスの3月10日 絶対王政→革命・処刑→外人部隊の誕生

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

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