日本にはなかった戦いのルール 欧州で捕虜と身代金を交換した理由

9月19日は1356年にポワティエの戦いがあった日だ。今回は、日本にはなかったヨーロッパの「戦いのオキテ」について書いていこう。

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捕虜と身代金を交換する欧州ルール

ポワティエの戦いはイングランド(プランタジネット朝)とフランス(ヴァロワ朝)による百年戦争の中で起きたバトルで、結果はフランスの惨敗に終わった。フランス国王ジャン2世と側近たちはイングランド軍に捕まり、捕虜となったため、これは屈辱的な完敗と言っていい。

ポワティエの戦いと同じころ、日本では1333年に東勝寺合戦があった。この戦いは新田義貞の勝利に終わり、負けた執権・北条高時と北条一族は集団自決し、鎌倉幕府は滅亡。家臣も降伏を拒否し、自害した。
このように日本の合戦では、大将や側近の武将たちが自害することがよくあった。武士の価値観としては、敗北するよりも、捕虜となって生きながらえる恥の方が耐えがたかっただろう。しかし、キリスト教では自殺が禁じられていたため、ヨーロッパの戦いでは自害することは少なかった。

また、ヨーロッパには、日本にはなかった習慣があった。もし敵に捕まっても、必ずではないが、身代金を払えば解放されることがあった。ポワティエの戦いでも、ジャン2世を捕虜にしたイングランドは、フランス側と身代金の額を交渉し、合意した後、国王を釈放した。
その後、ジャン2世はフランスに戻ったが、約束した身代金の支払いが遅れたことを理由に、自分の意思でイングランドに戻り、再び捕虜となった。そして、彼はそのまま死を迎えた。
日本史でこんな事例はなかっただろうし、日本人の価値観ではジャン2世の行動は理解がむずかしいと思う。

ヨーロッパでは、戦いで捕まえた貴族や王を捕虜にしても、お金を払えば解放されることが一般的だった。
1346年の「ネヴィルズ・クロスの戦い」でイングランドが勝利し、スコットランド王デイヴィッド2世を捕えたときも、スコットランド議会が10年かけて分割払いで身代金を支払い、王を解放している。
もちろん、王位継承をめぐる戦いでは、捕まえた王位継承者を解放することはなかっただろうし、この法則が必ずしも適用されるわけではない。しかし、捕虜が身代金と引き換えに解放されることは常識的におこなわれていた。

一方、日本の戦いでは、大名や武将を捕虜にして身代金で解放する事例は聞いたことがない。あったとしてもそれは超例外で、日本の慣習としては存在しなかったはずだ。
なぜヨーロッパではこうしたことが常識として行われていたのか?
英語版ウィキペディアを参考に、その理由を2つ挙げてみよう。

理由1:同じ宗教を信じていたから

中世後期、ヨーロッパでは敵を倒すことだけでなく、絶滅させることを目的とした宗教戦争が何度も発生した。その理由には、キリスト教世界の権力者たちが、異端者や異教徒を根絶することを望んだからだという。

Authorities in Christian Europe often considered the extermination of heretics and heathens desirable.

Prisoner of war

 

同じ神を信じるキリスト教徒でも、カトリックと違う信仰をもつは「異端」とされ、中世ヨーロッパでは徹底的に排除された。アルビジョア十字軍や北方十字軍がその例だ。

・アルビジョア十字軍
ローマ教皇インノケンティウス3世は、南フランスにいた異端のアルビ派(カタリ派)を嫌い、1209年に彼らを殲滅するために十字軍を呼びかけた。カトリック軍はベジエ村で女性や子供も殺害し、1万人以上が虐殺された(Massacre at Béziers)。カトリック教徒による攻撃と処刑でアルビ派は絶滅した。

・北方十字軍
北方十字軍の敵は異教徒だった。13世紀、デンマークやスウェーデン、ドイツ騎士団などが、北ヨーロッパやバルト海沿岸にいた異教徒を攻撃し、滅ぼした。

カトリックにとって異端者や異教徒は「悪魔」も同然で、地上から存在を消すことが戦いの目的だったから、身代金で解放されることはなかった。

古代からの伝統

ヨーロッパの戦いで、身代金を得て捕虜を解放することは、キリスト教が広まる前からおこなわれていた。古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』には、財産と引き換えに「慈悲(捕虜の釈放)」を求める場面が登場する。
また、カエサルが海賊に捕まり、海賊が20タラントの身代金を要求すると、カエサルは「わたしの価値はそんなものじゃない!」と言って50タラントに引き上げさせたという話もある。ちなみに、カエサルは解放された後、海賊をミナゴロシにしたという。

このような慣習はキリスト教世界だけではなく、他の文化圏でも見られる。
1396年、イスラム教のオスマン帝国がニコポリスの戦いでヨーロッパの国々と戦い、勝利した後、捕虜となったキリスト教の貴族たちを身代金で解放した。しかし、身代金の価値がないと判断されたキリスト教徒の兵士は、容赦なく殺された。

武士の価値観

英語版ウィキペディアには、「封建時代の日本では、捕虜の身代金による解放(ransoming prisoners of war)の慣習は存在せず、捕虜の大半はすぐに処刑された」という説明がある。
日本の歴史では、宗教をめぐって争いが起きることはあっても、ヨーロッパの三十年戦争やユグノー戦争といった本格的な宗教戦争はなかった。伝統的に、武士は名誉を何よりも大切にし、敵に捕まることを恥と考えていた。
そんな国で、捕虜と身代金を交換することが「戦いのルール」になるとは思えない。

 

おまけ

イングランドは百年戦争に負けた後、もう対岸のフランスに対して目を向けることはなく、自国の経営に専念し、現在のイギリスを形成した。
日本にも似たような戦いがある。7世紀の白村江の戦いで敗北した後、日本は朝鮮半島から手を引き、自国の改革に集中した。そして、「天皇」という称号や「日本」という国名が登場し、現在の日本国の土台がつくられた。

【日英の歴史】百年戦争と白村江の戦いに負け、国家が形成された

 

 

ヨーロッパ 「目次」

運命の「11月5日」 日本とドイツが“戦争開始”を決めた理由

宗教戦争と神仏習合 日本人とヨーロッパ人の歴史・信仰の違い

日本とドイツの違い:欧州で最大&最後の宗教戦争・三十年戦争

日本にはない、キリスト教やユダヤ教の「神との契約」という考え方

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この記事を書いた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。
また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。

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