母国フランスをはじめ、現在のスペイン、ドイツ、ポーランド、イタリアなどを直接・間接的に支配し、ヨーロッパの覇者となったナポレオン。
しかし、「平家でない人間はまともな人ではない(平家にあらずんば人にあらず)」と豪語して滅亡した平家一門のように、ヒトの栄光に永遠はない。平家物語の「盛者必衰」の法則はフランスの英雄にも当てはまる。
ロシアに手を出したことが、ナポレオンの「終わりの始まり」になった。
イギリスと敵対していたナポレオンは、自分の意思に反してイギリスと貿易をおこなったロシアに激怒し、攻撃を決意。1812年に70万という途方もない大軍でロシアを攻めた。ナポレオン軍は強く、破竹の勢いでロシア軍をつぎつぎと撃破し、誰も進軍を止められなかった。しかし、それはそう見えただけで、実は死亡フラグだった。
ナポレオンの軍はロシアの奥深くまで進み(誘い込まれ)、ついにモスクワに入った。
しかし、多くの市民はすでに脱出しており、ゴーストタウンと化していた。各地でロシア兵が火をつけ、モスクワは3~4日間も燃えつづける。食べ物や建物を焼き払うこの焦土作戦によって、ナポレオン軍は期待していた食料を得ることができず、夜を明かす住居も失ってしまった。
兵士たちは疲弊し、ナポレオンは和平交渉を試みたが、ロシア皇帝に相手にされなかった。冬が近づき、寒くなってきたところでジ・エンド。10月の終わりごろ、ナポレオンはモスクワからの撤退を決めた。
11月になって冬がはじまると、ナポレオン軍では飢えと寒さで兵士がバタバタと死んでいく。それに加えて、コサック騎兵や武装した農民の襲撃を受け、ナポレオン軍は容赦なく狩られた。
70万の軍で出発したのに、5千人しか戻ってこられなかったという。
太平洋戦争の末期、日本軍はミャンマーでおこなったインパール作戦で英軍に敗れ、撤退したときには行き倒れる者が続出し、死体は放置され、そのルートは「白骨街道」と呼ばれた。ロシア遠征で敗北したナポレオン軍も、帰路はそんな惨めな状態だったかもしれない。
ナポレオンはこのロシア遠征で大ダメージを受け、翌年のライプツィヒの戦いでほぼ息の根を止められた。
これは、オーストリア、プロイセン、スウェーデン、ロシアの連合軍とナポレオンのフランス軍との激突で、両軍合わせて約56万の兵が参加し、13万人以上の死者がでた。
第一次世界大戦がはじまるまで、ライプツィヒの戦いはヨーロッパでおこなわれた最大の戦いとなった。
関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋が裏切って徳川軍に味方し、東軍の勝利に大きな影響をあたえた。そこまでのインパクトがあったかは分からないが、ライプツィヒの戦いでは、ザクセン王国軍の一部が途中で寝返り、連合軍側についてナポレオン軍を攻撃する。
ロシア遠征では冬将軍、ライプツィヒの戦いでは手痛い裏切りが原因となって、ナポレオンは戦いに敗れ撤退した。
失意のナポレオンは、「一年前、全ヨーロッパが我々とともに進軍した。しかし今は、全ヨーロッパが我々に敵対し進軍している」と言ったという。ロシア遠征に向かうときと、ライプツィヒの戦いで追い込まれている状況を指しているのだろう。
翌年1814年、ナポレオンは皇帝の地位をはく奪され、エルバ島に追放された。この後、彼は島を脱出してパリに戻り、再び皇帝となったが、かつてのような力や輝きはなく、彼にワーテルローの戦いに敗れて「百日天下」は終わった。ナポレオンはセントヘレナ島に流され、そこで亡くなった。
ナポレオンの英雄としての人生は、ロシア遠征とライプツィヒの戦いで負けたことで終わり、その後は余生のようなものだった。

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