日本で「冨岡」といえば、人なら義勇、工場なら製糸場が知られている。きょう11月4日は富岡製糸場の操業がはじまった日なので、これから「技術大国・日本」について書いていこう。
ペリーが感じた日本人のすごさ
幕末、日本はペリーという「外圧」を受けて、200年以上続いた鎖国という長い眠りから覚めた。戊辰戦争で幕府が滅び、明治政府が樹立されると、日本では「外国人が来たら神州(日本)が汚れる」という攘夷の空気はなくなり、欧米諸国を参考にして積極的に国内改革を進めた。
その重要なきっかけを与えたペリーは、日本人の技術力の高さに驚き、日本人が文明世界の技術を手に入れれば、将来、機械工業の成功を目指す強力な競争国になるだろうと述べた。
日本人の資質を見抜いた彼の目には、日本が技術大国になる未来が見えていたらしい。
お雇い外国人
明治政府は、日本を近代国家に変えるため、欧米からさまざまな分野のエキスパート、いわゆる「お雇い外国人」を採用して、日本の発展のために働いてもらった。
彼らはすさまじい高給取りだ。
太政大臣の三条実美が月に800円、右大臣の岩倉具視が600円もらっていたところ、造幣寮の支配人をしていたイギリス人のウィリアム・キンダーのは1000円以上ももらっていたのだ。日本政府はほかにも月棒600円や500円と、日本人以上に高い金を払ってお外国人を雇ってアドバイスを受けた。
富岡製糸場はフランス人の生糸技術者ポール・ブリューナの指導を受けて完成し、1874年11月4日に操業を開始した。
なんで日本は生糸に注目したのか?

明治初期の富岡製糸場
日本の生糸産業
日本と生糸の関係はとても古い。カイコを育て、その繭から生糸を作る技術は、弥生時代に中国から伝わり、日本でも生産がおこなわれていた。
奈良時代には絹織物が納税の品として使われていた記録もある。しかし、中国の品質には勝てず、日本での生産は衰退していく。
江戸時代になって平和な時代になると、幕府や各大名が本腰を入れて取り組んだ結果、生糸や絹織物の産地ができ、江戸中期には中国絹に匹敵する高品質の製品を生み出すことが可能となった。
日本には開国する前から原料となるカイコがいて、生糸を作るための知識や技術もあり、当時は世界的に生糸の需要があったため、明治政府はこれを日本の基幹産業にし、海外に輸出して国内改革に必要な資金を得ようと考えた。
日本は世界一の輸出国へ
また、時代も日本ほほんだ。ヨーロッパではカイコの病気が大流行し、養蚕業が大きなダメージを受け、中国では太平天国の乱が起きたため、生糸の輸出が減少した。
その結果、各国が日本の生糸を求めるようになった。1862年には、生糸と蚕種が日本の輸出品の86%を占めており、日本がこれに全集中していたことがわかる。
しかし、「作れば売れる」という状態だったため、粗悪品を売って利益を得ようとする悪者が現れ、日本産生糸の評価が低下した。
ジャパンブランドのイメージを回復させるため、政府は群馬の富岡に官営の大規模製糸工場を建設することを決定。この地が選ばれた理由は、カイコと燃料となる石炭、さらに大量の水を得やすいという条件が整っていたから。
日本は長い歴史の中で、生糸作りの知識と技術が培われていた。それに先進的な西洋文明が融合して富岡製糸場が生まれ、そこで高品質な生糸を大量に生産することができるようになった。
1909年には、日本の生糸輸出量は世界一になる。
和の力と西洋の技術をうまく組み合わせて、日本はアジアで初の近代化国家になることができた。
「日本が文明世界の技術を手に入れれば、機械工業の強力な競争国になるだろう」というペリーの予言は的中した。

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