地震が起こるたびに支援の輪が広がって、キズナを強くしてきた日本と台湾。
じつは幕末の日本とロシアの間にも、大きな不幸の中で生まれた「美しい助け合い」の物語があったのことをご存知だろうか。
1. ディアナ号の悲劇:安政南海地震による遭難
1854年12月23日、マグニチュード8を超える安政東海地震が発生し、2〜3000人が死亡した。
ポーランドには「不幸はペア(2人連れ)でやって来る」ということわざがあるらしい。その翌日、クリスマス・イブには安政南海地震がおきて数千人もの犠牲が出た。
いくら日本が地震大国でも、巨大地震が2日つづけて発生するのは異常。
この時、ロシアの軍人プチャーチンは、日露和親条約の交渉のために軍艦ディアナ号で伊豆の下田を訪れていた。そこで彼は安政東海地震を経験する。
ディアナ号は津波でダメージを受けたが、プチャーチンたちは溺れている日本人を助け、手厚く治療した。
プチャーチンと交渉していた幕府の役人・川路聖謨(としあきら)は、日記に「魯人(ロシア人)は死せんとする人を助け、あつく療治の上、按摩までした。助けられた人々は、泣いて拝んだ」と記している。
その後、ディアナ号は修理に向かう途中で沈没してしまう。今度は地元の漁師たちが必死に救助活動をおこない、約500人のロシア人乗組員を救出。村の人々は、彼らのために宿泊所や食料、酒やタバコなどを懸命に用意し、温かくもてなした。
川路はその様子を「そのとりはからいは、さながら鬼神のごとし」と称賛している。

「ヘダ号」
2. 人道支援と代船「ヘダ号」の建造
帰る手段を失ったプチャーチンたちのために、幕府は戸田(へだ)村で代わりの船を造ることを許可した。これが日本にとって、近代化への大きな一歩となる。
ロシア人が設計図を引き、日本の大工たちがそれを見て船を造った。この共同作業を通じて、日本の大工たちはこれまでの和船とは全く違う「洋式帆船」の高度な知識と技術を学ぶことができた。
こうして完成したのが、日本初の洋式帆船「ヘダ号」だ。
幕府は洋式船の建造技術を自分たちのものにする絶好の機会と考え、川路聖謨に対し、同じ型の船1隻の建造を命じた。
最終的には、「ヘダ号」と同じ型の洋船10隻の量産に成功した(君沢形)。
この出来事は、日露両国にとって素晴らしい結果(ウィン・ウィン)をもたらす。
ロシア側は新しい船を造ってもらい、乗組員は無事に帰国することができた。プチャーチンは、
「無事に帰国できたのは、親切な援助のおかげであり、その時から日本の人々への友愛の気持ちは変わることはありません」
と感謝の気持ちを述べている。
いっぽう、最新の造船工学や製図法をマスターした。
日本は最新の造船工学や製図法をロシア人から教えてもらい、マスターすることができた。これによって洋式船の国産化が可能となる。ここで学んだ船大工たちは、後に日本各地で洋式船の建造に活躍し、知識や技術を伝え、日本の近代化を支えた。
幕末、巨大地震という大きな不幸の中で、お互いに助け合い、共に汗を流してキズナを深めた日本人とロシア人。この50年後、両国が「日露戦争」で戦うことになるとは、当時の人々は夢にも思っていなかったはず。

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