先祖に中国人を持ち、今はその国の国籍を持っている中国系の人たちは、横浜中華街をはじめ世界中にいる。
英語版ウィキペディア(Overseas Chinese)によると、世界でもっとも多くの中国系人口を抱える国はタイで、国内に約930万人(総人口の14%)が住んでいる。
トップ画像はバンコクにある中国街のもの。
これから、中国系タイ人(特に潮州系)が多い理由について説明していこう。
タイ社会にある中国の影響
日本人がタイの首都バンコクを旅行したら、ワットアルン、ワット・ポー、ワット・プラケオの3つのお寺(ワット)を回るのが定番だ。
このバンコク三大寺院は、京都の金閣寺・清水寺・伏見稲荷大社のように、いつもたくさんの外国人でにぎわっている。
15年ほど前、その中の1つであるワット・ポーを訪れたとき、境内にタイで歴史や伝統と全く関係なさそうな中国武将の像が置いてあって、強烈な違和感を覚えたのを今でも覚えている。

タイ人ガイドの話では、この関羽のような像とワット・ポーに直接的な関係はない。歴史的にタイには昔から中国の文化や物が伝わってきたので、これもそのひとつだろうとのこと。
「この像は強そうに見えるから、誰かが門番としてこの寺に置いたんじゃない?」とタイ人らしい適当さで言う。
日本人のボクからすると、タイの仏教寺院の雰囲気にはまったく合っていなくて、浮いていると感じるのだけど、タイ人のガイドは特に違和感を感じないらしい。
中国文化はタイの社会を構成する重要な要素になっていて、それを切り離すことはできないという。
たとえば、タイでは年に1度、肉を控えてベジタリアンフードを食べる期間、「キンジェー(กินเจ)」がある。その時期になると、黄色地に赤く「齋」(さい:心身を清めること)と書かれた漢字があちこちに登場する。
キンジェーは中国から伝わった風習で、「ジェー(齋)」は潮州語に由来している。

キンジェーを知らせる旗
タイを再統一したタークシン王
中国系タイ人には、中国南部・広東省にある「潮州」をルーツに持つ人がとても多い。そうなった大きな理由にタークシン王の政策がある。
彼は潮州から来た中国人とタイ人の母親のもとに生まれ、父親から「鄭信」と名付けられた。タークシンの「シン」は「信」に由来する。
タークシンはアユタヤ王朝(タイ)に仕える役人だったが、首都アユタヤはビルマ軍の侵攻を受けて滅亡し、徹底的に破壊され廃墟となった。
タークシンはアユタヤを捨て、南部のトンブリーに移動し、1767年に王として即位し、トンブリー王朝を開始した。
タークシン王はチャックリーという有能な将軍とともに地方勢力と戦って平定し、タイ国内を再統一し、さらにラオスやカンボジアを服従させ、タイの国力を高めた。実質的にアユタヤ王国を復活させたといえる。
タークシンと中国人の深い関係
タークシン王の成功に大きく貢献したのは潮州出身の中国人コミュニティで、彼はそれを利用し、タイを支えるために必要な食料や物資を中国から運んでいた。また、タークシンは国を再建するため、中国からの移民と貿易を積極的に奨励したという。
「King Taksin actively encouraged Chinese immigration and trade.」(Thai Chinese)
この政策によって、中国からの移住者が大量に流入した。
タイにおける中国人の人口は1825年には23万人だったのが、1910年には79万2千人に激増。1932年ごろには、人口の約12%以上が中国人となった。
当初、中国系移民はほぼすべて男性で、女性がいなかったため、地元のタイ人女性と結婚することが一般的だった。
現在でも先祖に中国人をもつタイ人はとても多い。

タークシン王(1734年 – 1782年)
タークシンの処刑
しかし、タークシン王の精神状態は次第におかしくなっていく。
彼は自分がブッダになると信じ、血の色が赤から白に変わることを期待していた。また、仏教僧に対して、自分を神として崇拝することや頭を下げることを要求し、それを拒否した僧は地位を奪われたり、ムチ打ち刑に処されたりした。
こうした仏教迫害などによって国内は混乱していった。ビルマの脅威を感じていた人たちは不安を感じ、国内の統治体制を再び確立するため、クーデターを起こしてタークシンから権力を奪った。
そのころ、カンボジア遠征をしていたチャックリー将軍は、豊臣秀吉の「中国大返し」のように急いでタイへ戻り(たぶん)、混乱をしずめて国内を安定させた。アユタヤ王家の血を引く彼は民衆の支持を得て王(ラーマ1世)となる。
そして、アユタヤ王家の血を引く彼は民衆の支持を得て王(ラーマ1世)となり、現在まで続くチャックリー王朝をひらいた。
「狂王」となったタークシンとその一族は処刑され、トンブリー王朝は一代で滅亡した。
ちなみに、ワット・ポーをつくったのがラーマ1世だ。タークシン王の時代に混乱し、分裂した仏教勢力を立て直そうとしたのだろう。
タークシンが失脚した理由
タークシン王が失脚し、ラーマ1世(チャックリー将軍)が即位した理由については、一般的に以上の話が定説とされているが、別の説もある。
タークシン王の政策によって、タイ国内では中国移民の経済的、政治的な影響力が増大してきた。
彼は中国人商人との関係を深め、彼らをタイの貴族にしようとしたことで、チャックリー将軍やアユタヤ時代の「旧貴族」たちがそうした変化を嫌い、タークシンを追い出したという。
Chakri and his supporters were of the ‘old’ generation of the Ayutthaya nobles, discontent with these changes.
結果的に、タークシン王を成功に導いた最大要因が、彼を失脚させる主要な原因となった。
中国人のその後
タークシン王は潮州商人の協力を得て米や食料を輸入し、その見返りとして王は彼らに特権をあたえ、城壁の内側にある王宮近くの土地に住むことを認めた。
しかし、ラーマ1世はタークシンを処刑した後、タークシンを支持していた中国人勢力に懸念を感じる。それでも彼は中国人を国外に追放したり、排除したりすることはなく、中国からの移民を受け入れた。
しかし、ラーマ1世は首都をチャオプラヤー川の東へ移動させた際、潮州人の居住地を城壁の外へ移転させた。
これが現在のバンコクにあるチャイナタウンにつながっていく(Chinatown, Bangkok)。

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