レジスタンス組織の少女が敵に捕まって、処刑される瞬間、こんな悪魔のささやきを聞かされる。
「今、ここで仲間の名前を言ったら、おまえの命は助けてやる」
マンガだったら、このあと奇跡みたいな展開が起きる。
処刑部隊の中に仲間が潜んでいて、敵を銃でなぎ倒し、少女を救い出す――そんな都合のいい展開だ。
ユーゴスラビア人の17歳の少女「レパ・ラディッチ」は、その究極の問いにどんな選択をしたのか?

レパ・ラディッチ
パルチザン(抵抗組織)の少女、レパ・ラディッチ
第二次世界大戦時、ナチス・ドイツの恐怖の時代を生きた少女と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクだろう。
彼女は隠れ家で息をひそめ、希望を捨てずに日記を書き続けたが、最後は15歳という若さで収容所で亡くなった。

しかし、アンネと同じ時代、別の場所で、また違った形でナチスに立ち向かい、命を散らした少女がいた。
それがセルビア出身のユーゴスラビア人「レパ・ラディッチ」で、ドイツ軍と戦ったパルチザン(抵抗組織)のメンバーだ。
奪われた自由とレジスタンスへの決断
レパ・ラディッチも現在の日本の女子高生と同じように、愛する家族がいて、友達と笑い合う日常があり、すてきな未来に憧れるような普通の少女だっただろう。
だが、時代が彼女にそんな平凡な人生を過ごさせてはくれなかった。
1941年4月10日、ドイツ軍がユーゴスラビア(現在の東ヨーロッパにあった国)に侵攻すると、10日ほどでユーゴスラビア全土を制圧してしまった。
レパが暮らしていたユーゴスラビアは、ナチス・ドイツの占領下におかれ、人々は自由が奪われ、多くの市民が虐殺された。
そんな絶望的な状況で、レパは一つの決断をする。
占領軍に抵抗する組織、「レジスタンス」に参加したのだ。
見つかって捕まれば、まず間違いなく殺されたが、それでも彼女は、自分たちの自由や未来を取り戻すために立ち上がった。
抵抗運動に捧げた青春
やがて恐れていた事態が起きる。
1943年2月、ドイツ軍を中心とする部隊がパルチザンの掃討作戦をおこない、その激しい戦闘中、レパはナチスに捕らえられてしまった(ネレトヴァの戦い)。
ナチスは情報を引き出すため、数日にわたって厳しい拷問をおこなったが、彼女は決して口を割らなかった。
そのため、彼女は絞首刑を宣告された。
これほど過酷な青春を過ごした17歳は世界史の中でも少ない。

処刑台に立つレパ
迫られた「究極の選択」と最後の言葉
とうとう、彼女は処刑台に立たされた。
首に冷たい縄がかけられたとき、彼女はこう叫んだ。
「人々よ、自由のために戦え! 悪者に屈してはならない! 私は殺されるが、私の仇(かたき)を討ってくれる人がいる!」
これが彼女の最後の言葉となった。
レパは絞首刑によって、17歳の短く密度の濃い人生を終えた。
じつはこのとき、「最後のチャンス」が与えられたという。
彼女が処刑台に立ったとき、ナチスの軍人はレジスタンスの指導者と仲間の名前を言えば、命だけは助けてやると言った。
レパの答えはこれだ。
「私は裏切り者ではありません。あなた方が尋ねている人たちは、あなたたちを最後の一人まで滅ぼすことに成功したときに、その姿を現すでしょう」
彼女は命と引き換えに仲間を守った。
命よりも守りたかったもの
最後の“チャンス”を放棄して、彼女は公開処刑された。
現代の日本では、命より大切なものはないと言われるが、人によってはそれを犠牲にしても守りたいものもある。
世界の歴史を見ると、「祖国」を守るために命がけで戦う人がよくいて、彼らはその国で英雄と見なされる。
1951年、レパ・ラディッチは当時最年少でユーゴスラヴィア人民英雄勲章を授与された。
平和な時代を生きて、こんなセリフはマンガの中ぐらいでしか聞かないが、レパが最後に叫んだ言葉は、心のどこかに留めておく価値があると思う。
「人々よ、自由のために戦え!」

足場を外され、吊るされたレパ
ベトナムの英雄、ヴォー・ティ・サウ
ユーゴスラビアのレパと同じような少女がベトナムにもいる。
フランスの植民地支配下にあったベトナムで、レジスタンスの一員としてフランス軍と戦い、1952年に19歳で処刑されたヴォー・ティ・サウだ。
彼女は処刑される瞬間まで、微笑みながら歌っていたという。


ベトナムの国民的英雄のヴォー・ティ・サウ(1933年 – 1952年)

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