5月12日:東西で起きた「歴史的な出来事」
5月12日は歴史をさかのぼると、世界の東西で次のような出来事があった日らしい。
日本:1576年に石山合戦で、織田信長の軍が石山本願寺を包囲した。
フランス:1588年にユグノー戦争で、ギーズ公アンリがパリに入城し、アンリ3世が逃亡した。
石山合戦とユグノー戦争はまったく違う出来事だが、「政治と宗教が切り離された」という共通点がある。
日本とヨーロッパは16世紀に政教分離が一気に加速したのだ。
日本の激震:織田信長が打ち立てた「宗教からの独立」
1. 天皇や法皇すら手が出せなかった「山法師」の特権
平安時代、白河法皇は強大な権力を持っていたが、それでも法皇の力を上回るもの(わが心にかなわぬもの)があった。
「鴨川の水(洪水)」と「さい(サイコロ)の目」、それと「山法師」の三つだ。
当時、武装していた比叡山延暦寺の仏教僧は「山法師」といわれ、彼らは朝廷に何度も自分勝手な要求をしていた(強訴)。
山法師には仏の権威と武力があったため、貴族や天皇は抵抗できず、彼らの無茶ぶりにはいつも悩まされていた。

しかし、山法師たちの力が通じない人物が現れた。
2.三河一向一揆|徳川家康の三大危機の一つ
戦国時代、仏教団体も領地・金・軍隊(僧兵)をもつ強力な勢力となり、戦国大名と同じように独自の法律をもち、ひとつの「独立国家」のように振る舞っていた。
とくに全国の一向宗をまとめる本願寺の力は絶大で、信者どうしの結びつきも深く強固だった。
徳川家康の三大危機といわれる戦いに、「三方ヶ原の戦い」と「伊賀越え」とならんで、「三河一向一揆」がある。
三河の統一を目指す家康に対し、一向宗の寺は不入特権を主張し「独立」を維持しようとした。こうして両者の対立は深まり、1563年に激突した。
このとき何人もの家臣が寝返り、一向宗の味方をしたことで家康は大ピンチにおちいる。
家康はなんとかこの戦いを制したが、宗教集団がもつ強さ・恐ろしさを実感するには十分だった。
3. 信長の戦略:キリスト教の利用と仏教勢力の武装解除
「天下布武」をとなえ、全国統一を目指していた織田信長にとっても、反抗的な仏教勢力はめざわりな存在だった。

信長がヨーロッパからやってきた宣教師を保護し、彼らに布教を認めた理由の一つには、仏教の対抗組織としてキリスト教を利用しようと考えたことがある。
キリスト教と仏教の勢力は敵対していたから、信長にとっては「夷を以て夷を制す」となる。
宣教師たちは純粋に信仰を広めることを目的としていて、日本の政治に介入しなかったことも信長にとっては都合がよかった。
当時、日本の宗教集団で「ラスボス」といえる存在が、石山(現在の大阪)に拠点を築いていた石山本願寺だ。
織田信長は経済的に繁栄していた石山を手に入れ、天下統一の拠点にしたいと考えた。
しかし、石山本願寺がそれを認めるわけがない。
こうして両者は約10年にわたって戦い続けたが、なかなか決着はつかなかった(石山合戦)。
信長を相手にこれだけ戦うことができたという事実から、石山本願寺の強大さが分かるだろう。
最終的には1580年に、天皇の勅命により信長と顕如(けんにょ)が和議を結び、本願寺側が武装解除し、拠点を放棄して去っていった。
ただし、顕如は退去したが、長男の教如(きょうにょ)は信長との徹底抗戦を主張したため、顕如とは絶縁状態になる。
後に徳川家康が教如に土地を与え、そこに東本願寺が建てられた。
宗教で苦労した家康にとっては、本願寺という巨大な勢力が分裂していたほうが「おいしい」のだ。

ほかにも信長は1571年に「比叡山焼き討ち」をおこない、白河法皇でさえ抵抗できなかった延暦寺の僧兵を無力化した。
信長は仏教勢力から特権や軍事力を奪い取ったことで、僧侶たちは政治の世界から距離をおき、本来の宗教集団へと戻っていった。
信長の戦いで多くの仏教信者が亡くなったのは事実で、そのため彼は「虐殺者」と非難されることもある。
しかし、その犠牲がなかったら政教分離は進まず、日本が新しい時代をむかえることはできなかった。
ヨーロッパの激動:キリスト教共和国の崩壊
1. 「教皇は太陽」——絶対的な権威を誇ったキリスト教共和国
ヨーロッパでも16世紀に、政教分離がはじまる重大な出来事があった。
でもその前に、それまでの「宗教と政治」の歴史を簡単に説明していこう。
中世のヨーロッパでは、ローマ教皇は皇帝や王より権力があった。
13世紀ごろに全盛期をむかえ、当時のインノケンティウス3世は「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語した。

しかし、14世紀のはじめごろ、教皇がフランス王に捕まって連行された事件(アナーニ事件)などを経て、教皇の権威は低下していった。

それでもヨーロッパでは、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会が絶大な権力を握っていた。
当時のヨーロッパをまとめて、「キリスト教共和国」と呼ぶこともできる。
2. ルターの宗教改革と、カトリック一強体制の崩壊
しかし、1517年に激震が走る。
ドイツでマルティン・ルターがカトリック(旧教)を否定する「宗教改革」を起こし、抵抗勢力としてプロテスタント(新教)が生まれた。
これでそれまでの「カトリック一強」の体制が崩壊する。
宗教、とくに一神教の世界では、妥協は「堕落」と見なされがちだ。
カトリックとプロテスタントの対立はどんどん深まっていき、やがて凄惨な宗教戦争へと発展。
1562年にはフランスでユグノー戦争、1618年にはドイツで三十年戦争が起こり、ヨーロッパ全土を血で染め上げていった。

現代の国際関係史家たちは、16世紀から17世紀にかけて、宗教改革とそれを原因とする対抗宗教戦争が起きた結果、ヨーロッパでは教会と国家が明確に分離されたと主張している。
Modern historians of international relations such as Hedley Bull and Cathal J. Nolan have argued that Europe ceased being a res publica Christiana due to the 16th- and 17th-century wars of the Reformation and Counter-Reformation and became a “state system” with a sharp separation of church and state.
3. 宗教戦争がもたらした「キリスト教共和国」の崩壊
信仰をめぐる争いによって、ヨーロッパ世界は大きく変化した。
国境を越えて支配していた「キリスト教共和国」という巨大な枠組みが解体され、それぞれの国が外部から干渉されない自立した主権を持つようになったのだ。
これは、教会(宗教)と国家(政治)が分離したことを意味する。
もちろん、ヨーロッパにおける政教分離の歴史は複雑なので、そのきっかけは他にいくつかある。
しかし、宗教改革とそれを原因とする宗教戦争が、それに決定的な影響をあたえたことは間違いない。
まとめ:16世紀、日本とヨーロッパで起きた「政教分離」
16世紀に、日本では織田信長が仏教勢力を武力で押さえ込み、ヨーロッパでは泥沼の宗教戦争に人びとは疲れ果て、カトリック教会の絶対的な支配が崩れ去った。
地理的にも文化的にもまったく違って、お互いに何の影響も与え合っていないが、どちらも同じ時代に「宗教と政治の分離」という結果を生み出した。
それには、どちらも武力衝突という激しい痛みを必要としていた。
そして、それが古い時代や政治体制を滅ぼし、「近代的な国家」へと成長していく出発点になった。

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