はじめの一言
(エジソンの日本人助手・岡部芳郎について)
「自分の子供たちは、しょっちゅう自分の周りから金品を勝手に持ち出していくが、この日本の青年はテーブルの上にお金が置いてあっても、手をつけることなど全くない(エジソン)」
「日本賛辞の33撰 ごま書房」
今回の内容
・うざい国にはワケがある。
・同じイスラーム教でも、東南アジアと中東では違う。
・小さな悪より大きな善
・うざい国にはワケがある
日本人旅行者の間で、インド・モロッコ・エジプトの3つの国が「商売が強引で、しつこい!」ということで「世界三大うざい国」と言われているらしい。
で、この3つの「うざい国」を見て気づいた。
これって、イスラーム圏の国じゃん。
ひょっとしたら、「うざい」ということとイスーラム教の考え方には、何か関係があるんじゃないの?
*インドは約1億8千万人のイスラーム教徒が住む、世界で3位のイスラームの国でもある。
特にムガル帝国が支配していたインド北部にイスラーム教徒が集中している。
インド北部はイスラーム教の影響がとても強いので、ここではインドを「イスラーム圏の国」とした。
ということで、イスラーム教とその「うざい」関係を考えて、前回までに記事にしてみた。
まずは、「うざい」とイスラーム教の「ザカート(喜捨)」の関係。
次に、「うざい」とイスラーム教の「商売」の関係。
でも大事なことは、イスラーム教徒に聞いてみることでしょ。
イスラーム教徒の視点を知る必要がある。
ということで、インドネシア人のイスラーム教徒にきいてみた。

イエメンのイスラーム教徒の女性
・同じイスラーム教も東南アジアと中東は違う。
まず言われたことが、同じイスラーム教徒でも、インドネシアと中東とでは大きく違うということ。
「インドネシアのイスラーム教徒と中東のイスラーム教徒は考え方が違います。だから、はっきりとは分かりませんよ」
そりゃ、そうだ。
インドネシアのイスラーム教は「ゆるい」。
たとえば、イスラーム教最高の聖地「メッカ」があるサウジアラビアには、基本的にイスラーム教徒だけしか入ることができない。
異教徒は入国を許されないという厳しさがある。
マレーシアを旅していたときに出会ったサウジアラビア人の女性は、「この国では、女性が車を運転していることに驚いた。サウジアラビアでは、絶対に女性は運転できないの」と言っていた。

そういえば、最近でもスイスでこんなことが起きている。
東京新聞にこんな記事(2016年5月26日)があった。
宗教上の理由で女性教師との握手を拒否したイスラム教徒の男子生徒2人に対し、教師から握手を求められれば応じる義務があるとの判断を下した。
応じなければ、最高5千スイスフラン(約55万5千円)の罰金が保護者に科される恐れがあるとしている。
「女性教師との握手は義務、スイス イスラム教男子に」
スイスのこの中学校では、生徒と教師が握手をする習慣があるらしい。
けれど、この学校に通うイスラーム教徒の中学生が「家族以外の女性に触れることはイスラム教で禁じられているとして、女性教師との握手を免除するよう学校側に訴え(同記事)」ていたという。
親じゃなくて、中学生がこれを訴えていたことに驚く。
これも、インドネシアなら問題はないだろう。
友だちのインドネシア人のイスラーム教徒は、欧米人と同じように女性と笑顔で握手をしていた。
さらにサウジアラビアやカタールでは、イスラーム教の教えに反しているとして「ポケモン禁止令」が出ている。
けれどインドネシアでは、「問題なし」で、ポケモンGOは人気があるという。
ということでこれから書くことは、インドネシア人の友人のイスラーム教徒の意見になる。

マレーシア
・ザカートの考えが常識になった?
まずザカート定めの喜捨(ザカート)」についてであるが、これは財産のなかから一定の割合(金銀は二・五%など)で徴収され、困窮者や旅行者に支給される。ただし、一定以上の財を持つ者のみが支払う義務を持つ
聖典「クルアーン」の思想 大川玲子
簡単にいえば、「お金があるイスラーム教徒が、貧しいイスラーム教徒にお金を分け与える」という考え方だろう。
インドネシア人の友だちにたずねたのはこんな質問。
「ザカートの教え方から、イスラーム教の国では『金がある人は、ない人に出すべきだ』という考え方が常識になっているんじゃないの?」
それに対してインドネシア人はこう言う。
「それはあると思います。でも、それはイスラーム教の考え方だけからじゃないですよ。インドネシアでも、『お金持ちは多く出した方がいい』ということが社会の一般的な考え方としてあります。インドネシアは、貧富の差が激しい社会ですから。そうした格差の大きさから生まれた意識でもあると思います」
日本でも、「金持ちは多く払うべき!」という考えはある。
その考え方が累進課税の制度になっている。
ちなみに現在の日本の所得税(控除額を抜いた額)は、こんな感じで取られている。
年収が195万円の人は税率5%だから、約10万円。
年収が4000万円の人は、税率45%だから、1800万円。
(国税庁HP No.2260 所得税の税率より)。
「同じ日本人なのに、税金を払う額が違う」と、お金持ちは文句を言うかもしれないけど、日本の社会ではこれは常識の範囲内。
この「お金持ちは多くの税金を払うことが平等」という考え方が、宗教からきているのか?どこから来ているのか?なんことまでは、ボクには分からない。
彼の意見としては、「ザカートというイスラーム教の考え方が、その国に広く広まっていって常識的な考え方になったということは、じゅうぶん考えられます」というもの。
確かにイスラーム教の教えに反する考え方が、イスラーム教の社会で常識になることはありえない。
社会の常識が宗教の考え方から生まれることはよくある。
日本の場合、国民の多くが「自分は無宗教」だと思っているから、仏教徒でも神社で手を合わせたり、キリスト教の教会で結婚式をあげたりすることが常識になっている。

・小さな悪より大きな善
話をインドネシア人に戻す。
前にこんな疑問をもったことがある。
「何で、『うざい国』と言われる国の人は、外国人の旅行者にとんでもない金額をふっかけてきたり、ウソをついてお金を手に入れようとしたりするのか?良心が痛まないのだろうか?」
日本人ならそこまでしてお金を得ようとすることはまずない。
1000円の商品を10000円と言って売ろうとはしない。
そういうことをしたら良心が痛むから。
まあ、すべての人がそうではないけど。
そこで思いついた。
「イスラーム教徒の義務であるザカートさえしたら、良心を痛めることはないんじゃないの?」
で、これもこのインドネシア人に聞いてみた。
「たとえばエジプト人の商人だったら、10倍20倍の値段をふかっけてきて、お金をぼったくっても、『ザカートさえすればいいや!』って考えると思う?外国人からたくさんお金をとっても、そのぶん多くザカートをして貧しい人にお金をあげれば、良心は傷めない。むしろ、それは良いことになる。そういう考えはない?」
つまり、外国人の旅行者からぼったくっても、そのぶん貧しい人たちにお金をあげればいい、という考え方。
「小さな悪をしても、大きな善をすれば心は痛まない」ということはないのだろうか?
彼の考えは違った。
「それは関係ないと思いますよ。イスラーム教徒というより、国民の気質や個人の考え方ですね。インドネシアはのんびりした人が多いし、『儲けたい』という気持ちは少ないから、エジプト人みたいに強引に商売をしないと思います。」
確かに、中東のイスラーム教徒と東南アジアのイスラーム教徒は違う。
東南アジアのイスラーム教徒はお酒を飲む人が多いし、マレーシアでは女性が車の運転もできる。
正直言って、中東のイスラーム教徒よりは厳しくイスラーム教の戒律を守っていないように見える。
こうした違いはイスラーム教が征服によって広められたか、伝道によって広まったかの違いから生まれたのかなあ、と思う。
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>日本人旅行者の間で、インド・モロッコ・エジプトの3つの国が「商売が強引で、しつこい!」ということで「世界三大うざい国」と言われているらしい。
>で、この3つの「うざい国」を見て気づいた。
>これって、イスラーム圏の国じゃん。
インドはイスラム教の国ではなく、ヒンドゥー教の国です。
訂正をお願いします。
コメントありがとうございます。
「イスラーム圏の国」という表現は誤解をまねきやすいですね。
「インド北部」ということです。
言葉が足りませんでしたね。
また、何かお気づきの点があったら教えてください。