きょう7月4日は、フィリピン・アメリカの友好記念日。
1946年のこの日にいまのフィリピン共和国がアメリカから独立したから、はじめこの日はフィリピンの独立記念日だった。
でもその日は、1898年にアギナルド将軍がフィリピン第一共和国の独立を宣言した6月12日に移って、7月4日はアメリカとの友好を記念する日となる。
フィリピンは親米と同時に、めっちゃ親日国でもある。
太平洋戦争のときには反日感情もあったが、現在は日本のいい友人だ。
“親日度90%”のフィリピンで、ボルテスⅤの人気はすごかった
日本とフィリピンとの関係を語るのなら、神保 信彦(じんぼ のぶひこ:1900年-1978)を忘れちゃいけない。
神保の男気が日比友好の土台の一部になっているのだから。
太平洋戦争中、日本陸軍の軍人でフィリピンへ派遣された神保は、ミンダナオ島第10独立守備隊司令官の高級副官という高い地位にいた。
その島で神保は日本軍の捕虜となったロハス財務長官と出会う。
フィリピンの独立を心から願い、
「日本はヒロヒト天皇を持つ仁義の国で、ドイツのように捕虜を虐待しないと信じる」
と訴えたロハスに神保は心を動かされた。
それで、日本軍の一部からでていた処刑命令に対し、あの人物は絶対に殺させない!と神保は体を張ってロハスを守り抜く。
これがうまくいってロハスは処刑を免れることができた。が、上層部に「めんどくさいヤツ」と嫌われた神保は中国戦線に送られ、そこで終戦を迎えた。
終戦と同時に神保が日本へ帰国し、家族の元へ戻っていたら、あの話は生まれていなかった。
何の罪か知らんけど、神保信彦は中国で戦争犯罪人として監禁されてしまう。
一方、そのころロハスはフィリピン(第三共和国)の初代大統領となっていて、これ以上ないほど2人の明暗は分かれた。
そんなロハスはある日、神保の友人から「彼の命が危ない!」という連絡を受ける。
命の恩人の大ピンチを知ったロハスは今度は自分の番だと、すぐに国民政府主席の蔣介石に助命嘆願の親書を送った。
これによって神保は1947年3月に釈放されて、笑顔で帰国することができた。
晴れて日本に帰国した神保は「地上の権力はいつかは亡びるが、真の愛情は永遠に続く」と報道陣に語った。ロハスは翌年4月に急逝する直前まで神保の生活を案じていたという。
捕虜だった人物が初代フィリピン大統領になり、捕虜となった命の恩人を助けたという展開はもはやアニメ。
でも実際にそんな出来事があって、恩を返してもらった神保が帰国後、日本とフィリピンの友好に力を尽くしたことは言うまでもナイ。
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