「政治」という名の地雷さえ踏まなかったら、わりと良好な日本と韓国。
先月、車いすを使っている韓国の女子高生が母親と一緒に大阪を旅行したところ、「3つの信頼」を実感して感激したという。
ハンギョレ新聞(2022-12-08)
[寄稿]日本で得た「3つの信頼」
まずは、どこにでも行けるという信頼だ。
韓国の道は凸凹(でこぼこ)しているから、手動の車いすに乗っているとすぐに疲れてしまう。
道にわずかな傾斜があると、車いすも同じように傾いてしまうから、姿勢が崩れて体全体が痛くなる。
でも、大阪の道は違った。
よく舗装されていて車いす利用者でも通りやすく、「とりわけ道路がどちらか一方に傾いていないところが印象深かった」とある。
健常者には気づきにくいが、大阪の道はとても質が高いから、車いすでの移動がすごくラク。
次は、いつでも助けてもらえるという信頼。
この高校生が大阪の地下鉄を利用した際、車両とホームとの間がとても広くて驚いたけど、駅員などが手伝ってくれたから安全に乗ることができた。
ソウルの地下鉄駅だとこんな丁寧な対応を期待することはできす、「通りすがりの人々に手伝ってもらわなければならなかった」という。
大阪の地下鉄では専門的な支援要員が配置されていたから、彼女は安心して地下鉄を利用することができて、「いつでも助けてもらえるという信頼」を実感を得られた。
ホテルのレストランでもこうした「神対応」がある。
レストランには身体障害者など移動に困難のある人のために、サポート用具が用意されていて、職員もすぐに手伝ってくれたから、階段があっても簡単に上ることができて「私は気分良く食事を楽しむことができた」とのこと。
一方、韓国のホテルでは「家族が私を抱き、車椅子を持ち上げてようやく入ることができた」という経験をしていたから、日本での対応には感激するしかない。
大阪旅行を通じてこの女子高校生は最後に、「招かれざる客にならなくて済むという信頼」をあげる。
韓国では17年間、数え切れないほど「招かれざる客」となった彼女はこう感じていた。
他人とまったく同じ日常を生きていても、ある人は同情し、ある人は困惑した様子を見せ、ある人は冷たい視線を向けてくる。このような現実に懐疑を感じることもあった。
でも日本では、言葉の壁があって不慣れな環境を心配していたけれど、実際にはそんな心配は不要で「私を歓迎してくれる街と人々に、大きな慰めと勇気をもらった」とこの高校生は感動する。
そしてこんな日本での経験をもとに、「誰もが歓迎される世の中」を韓国でどう作っていくか考えることを提案して寄稿を終える。
この話で10年ほど前に、知人の韓国人が日本へ旅行に来た時のことを思い出した。
彼がバスに乗って京都市内を移動中、「日本のバスはスピードを上げて前の車を追い越すことはないし、丁寧な運転をしているなあ」とぼんやり考えていると、バスが停留所に着いて停車する。
そのとき異変を感じた。
「アレ?いま車体が少し傾いたぞ。一体何のために…」と一人ナゾに包まれていると、車いすに乗った乗客が乗り込んでくるのを見てすべてが分かった。
障害者や高齢者が乗車しやすいように、日本ではバスの車体をじゃっかん傾けることはよくある。というか10年前でも、この機能の無いバスは少ないのでは?
でも、彼は韓国でそんな配慮を見たことなかったから、東京や他の都市でも同じ対応をしているのを見て「さすが日本だ…」と感動する。
ボクと会った時、「韓国でそんなことがあったら、『バンクしたのか?』と思いますよ」と笑って言ったのはたぶん冗談ではない。
東京に住んでいた友人にこの感動体験を話すと、日本についてはいろんな不満があったその友人でも「福祉先進国」という点は認めて、韓国もこうした配慮や視点を取り入れないといけないと素直に言ったという。
韓国人は良くも悪くも日本への対抗心があるから、韓国メディアでもときどきそんな「日本に学べ」キャンペーンをする。
韓国人のこんな日本体験を知ると、地雷原さえ避ければ日韓はわりとうまくいくと常々思う。
引用記事タイトルの「得た」と言う表現が気持ち悪いですね。
まるで韓国側に信頼があるみたいじゃないですか。
内容は、日本側に信頼がある話なのだから、「知った」とかのが適切な気もします。
自動翻訳のせいなのでしょうか、それとも、韓国語の欠陥なのでしょうかねえ。
これはハンギョレ新聞の日本語版の記事で、それをそのまま載せました。