1945年のきょう、広島に原子爆弾が投下され、9日には長崎にも落とされて、その年の終わりには、両都市で合わせて約21万人が命を落とした。
犠牲者の中には、朝鮮王族の李 鍝(り ぐう、イ・ウ)がいる。今回は、日本人はもちろん、韓国人にも知ってほしい彼の物語を書いていこう。

李 鍝(1912年 – 1945年)
李鍝は、大韓帝国の初代皇帝・高宗の孫で、第二代皇帝・純宗の甥にあたる。1910年、純宗の時代に日本に併合され、大韓帝国は消滅した。
統治時代、純宗は日本の皇族に準じる高い扱いを受け、「李王」と呼ばれていた。彼はビリヤードをしたり、蓄音機を聴いたりして過ごし、帝国ホテルの初代料理長が作ったフランス料理を食べて、優雅な生活を送っていた。
李鍝は、雲峴宮(うんけんきゅう)という宮殿の当主となり、「李鍝公殿下」と呼ばれるようになる。その後、彼は東京に移住し、学習院で学んだ後、「皇族の男子は軍籍につく」という日本の伝統にしたがって軍人となった。
1945年8月6日の朝、陸軍中佐だった李は広島の司令部へ馬に乗って出勤している途中に被爆した。彼は病院に運ばれたが、翌日、32歳で亡くなる。
李の遺体はすぐに軍用機で朝鮮半島に運ばれ、8月14日の深夜に京城(現在のソウル)に到着し、翌日には朝鮮総督や昭和天皇の名代などが参列して葬儀がおこなわれた。
「李殿下」には吉成(よしなり)弘というお付きの日本人武官がいて、普段は彼と一緒に出勤していたが、この日はたまたま吉成が先に司令部に着いて李を待っていたため、被爆を免れた。吉成が急いで病院に駆けつけると、死の直前の李は「お前の方は、大丈夫か」と気遣いの言葉をかけたという。
李が亡くなると、吉成は後を追うようにピストルで自決した。
韓国のマスコミ報道や歴史教育では、日本の統治時代は「日帝強占期」と呼ばれ、日本が朝鮮人を差別し、耐え難い苦しみを与えたと非難されている。この認識は国民の間で広まっており、対日認識の土台となっている。
しかし、8月15日、日本がアメリカに降伏を発表したその日に、今のソウルで朝鮮王族を手厚く葬ったことや、「李殿下」を守れなかったという自責の思いから命を絶った日本人のことはほとんど知られていない。
もし、マスコミや学校がこうした事実を伝えていれば、日韓関係もきっと今よりは良くなっていた。
李 鍝(イ・ウ)や吉成弘も両国の友好を願っているはずだ。

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