2月27日は1594年に、フランス王アンリ4世がシャルトル大聖堂で戴冠式を行った日なので、今回はそれを記念して、フランス・インド・日本の「和解の名君」を紹介しよう。
まず、アンリ4世はフランスで最も人気の高い王の一人で、アンリ大王(Henri le Grand)や、良王アンリ(le bon roi Henri)と呼ばれ、紙幣のデザインに採用されたこともある。
アンリ4世が高く評価される理由は何か?
彼はフランス国内だけでなく、ヨーロッパ諸国のカトリックとプロテスタントの利害を現実的に調整し、平和をもたらしたことが大きい。
He pragmatically balanced the interests of the Catholic and Protestant parties in France, as well as among the European states.
ローマ・カトリック教会が圧倒的な支配力を持っていたヨーロッパで、1515年に「地殻変動」が起こる。ドイツでルターが宗教改革を始め、新しいキリスト教のグループであるプロテスタントが誕生したのだ。
そして、カトリックとプロテスタント信者による血で血を洗う抗争がぼっ発し、その影響がフランスにまでおよび、ユグノー戦争(1562年 – 1598年)が始まった。
フランスで新教徒のプロテスタントはユグノーといわれた。
フランスの人々は終わりの見えない戦いにウンザリして、争いを終わらせることにする。それには、対立するグループの代表者が結婚して一つになる方法がとっても効果的。ということで、1572年にユグノーの指導者だったアンリと、カトリック教徒で国王シャルル9世の妹であるマルグリットが結婚することとなる。
その年の夏に2人の結婚式が行われ、たくさんのユグノー貴族が結婚を祝うためパリに集まっていたところ、カトリック教徒の襲撃を受けて全国的な虐殺事件に発展。数千人が殺害され、この惨劇はサン・バルテルミの虐殺と呼ばれるようになる。
「妥協は堕落だから、一切認められない」という人たちが出てくるのが信仰のめんどくさいところ。
アンリは何とか生き延び、1589年のアンリ3世が暗殺されると王位を継承し、アンリ4世としてフランス国王となる。(その後、シャルトル大聖堂で戴冠式を行った)
そして、1598年に彼がナントの勅令を発布し、プロテスタントにもカトリックとほぼ同じ権利を与えたことで、ユグノー戦争はようやく終わりを迎えた。しかし、アンリ4世は、1610年にパリでカトリックの狂信者によって暗殺される。
信仰に関わる問題は本当に複雑だ。
日本のインドカレー店で定番のナンは、じつはインドで生まれたわけではなく、日本に来て初めて食べたというインド人もいる。
AIが言うには「ナンは、ムガル帝国(1526~1858年)の時代にインドに伝わったとされています」とのこと。
ムガルとは「モンゴル人の」という意味だから、ムガル帝国とは「モンゴル人の帝国」になる。現在のアフガニスタンのあたりを拠点として、1526年にバーブルがインド北部を制圧し、ムガル帝国を建国した。
フランスでユグノー戦争が起きていた16世紀、インドはイスラム王朝のムガル帝国によって統治されていた。アンリ4世と同じ時代を生きた第3代皇帝、アクバル(1542年 – 1605年)も「アクバル大帝」と呼ばれ、アンリ4世と同じく現代のインドで国民の人気が高い。
ムガル帝国はインドに侵入してきたイスラム教の王朝だったため、アクバルには、インド西北部にあったヒンドゥー教のラージプート諸国とどう接するかが重要な課題だった。彼は武力で屈服させるのではなく、「仲良し作戦」を選択。ヒンドゥー王国の王女と政略結婚をすることで、ムガル帝国に服属させ、ヒンドゥー教とイスラム教の融和を図った。
この政策はヒンドゥー教徒側にも歓迎されたらしく、サン・バルテルミの虐殺のような惨劇が起こったという話は聞かない。
アクバルはムガル宮廷に入った王女に対し、ヒンドゥー教の信仰を認めたから、これはかなり寛容な態度といえる。
宗教的、文化的に多様なインド(ムガル帝国)の平和と秩序を守るためには、ヒンドゥー教徒など多くの非ムスリムからの支持を得る必要がある。
それまでムガル帝国では、イスラム教徒以外の人間からは人頭税(ジズヤ)を取っていたが、アクバルはそれを廃止し、ヒンドゥー教徒なども立場的にはイスラム教徒と平等とした。
さらに、彼は非ムスリムを文武の高官に任命し、インド統治に参加させた。
To preserve peace and order in a religiously and culturally diverse empire, he adopted policies that won him the support of his non-Muslim subjects, including abolishing the sectarian tax and appointing them to high civil and military posts.
アクバルは「偉大」を意味する。
その名のとおり、彼はイスラム教とヒンドゥー教の融和の象徴となり、インド史上、最も偉大な王の一人として現在でも人気が高い。
最後に紹介する「融和の名君」は、飛鳥時代の用明天皇だ。
6世紀に朝鮮半島から大和朝廷に仏教が伝わると、朝廷内では「中国や朝鮮の国はすでに信仰している。わが国もこのビッグウェーブに乗るしかない!」と蘇我氏が主張すると、「それはないけない。いま外国の神を崇拝すれば、わが国の神々を怒らせる恐れがある」と物部氏が反対し、「崇仏・廃仏論争」が巻き起こる。
仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の争いはその後も続く。そして、用明天皇が統治していた 587年、丁未(ていび)の乱と呼ばれる内乱が起こると、蘇我馬子が勝利し、敗れた物部氏は没落していく。
おそらく、丁未の乱の後だと思うが、用明天皇は「天皇は仏法を信じ、神道を尊びたまう」と、仏教と神道の両方を同時に尊重する態度を示した。これはもう、「日本版ナントの勅令」と呼んでもいいのでは?
そのことは『日本書紀』に「天皇信仏法尊神道」と記されていて、これが日本で「神道」という言葉が初めて使われた記録となっている。
宗教の違いや正しさをめぐって争うことなく、神道と仏教の融和を図る用明天皇の考え方は、息子の聖徳太子にも「和を以て貴しとなす」と引き継がれ、神仏習合という現代の日本人の信仰スタイルとなった。
アンリ4世やアクバルと違って、用明天皇は日本で「大帝」と呼ばれることはなく、どちらかと言えば、天皇としての知名度は低い。少なくとも、息子には圧倒的に負けている。ヨーロッパやインドと違って、日本では宗教紛争が歴史を大きく動かしたことが少なかったからだろう。しかし、用明天皇には「名君」と呼ばれる資格があると思う。
【1地域1宗教】宗教戦争からのアウグスブルクの和議 inドイツ
コメント