3月19日は1279年に、中国で南宋が崖山(がいざん)の戦いに敗北し、トドメを刺された日。
「つまづいたっていいじゃないか 人間だもの」と言った相田みつを先生でも、同じ失敗を同じように繰り返したら、きっとさじをブン投げる。
宋がまさにそんなで、学習能力が絶望的になく、しかも貪欲だったために滅亡した。
契丹人
趙 匡胤(ちょう きょういん)が苦労して960年に、初代皇帝となって宋(北宋)を建国した。
宋の天敵は北方にあった「金」で、この国は異民族の契丹(きったん)人によって建てられた。契丹人は馬に乗って移動する遊牧民で、機動力があり、攻撃力も高い。
その遼が南下して攻め込んでくると、宋が迎え撃ち、膠着状態となって1004年に和議を結ぶこととなった。(澶淵の盟)。
その内容が対面を重視する中国人(漢民族)らしいもので、年下だった遼の皇帝(聖宗)が年上の宋の皇帝(真宗)を「兄」と呼び、外交上は宋が遼の兄となった。その代わり、宋は遼に毎年、大量の絹と銀を贈ることを約束する。内容としては遼に有利になっている。
知人の中国人の話では、中国人はお金を無くしても何とかなるが、メンツを失ったらもう死ぬしかない。こういう中国人の気質ははるか昔からあったらしい。
このとき、宋には絶対にかなえたい願いがあった。
それは遼に奪われた「燕雲十六州」を取り戻すこと。この地をふたたび支配しないと、中国を統一したことにはならないのだ。
*「燕」は現在の北京のある河北省北部、「雲」は大同を中心とする山西省北部のこと。
そんな宋にビッグチャンスが到来。遼の北方で1115年に女真族が金を建国した。
宋は金とタッグを組んで遼を攻撃する約束(海上の盟)を結ぶと、1121年に挟み撃ちによって遼を滅ぼすことに成功する。
これによって、宋は金から十六州の一部を譲渡されて、約200年ぶりに失地を回復することができ、宋は歓喜にわいた。
すると今度は別の問題が発生。
「敵の敵はマイ・フレンド」という論理で仲間になると、共通の敵が消滅したら、友は友でなくなる。宋にとっては金がそんな存在で、大きな悩みのタネとなった。
宋の欲望は底なしだ。燕雲十六州の一部では満足できず、すべてを手に入れたいと考えていた。それで宋は金と同盟関係を結んでいたにもかかわらず、裏で遼の残存勢力と手を結んだら、それが金にバレてしまった。
金の皇帝はこの裏切り行為に大激怒。金の大軍が怒とうの勢いで宋へ攻め込むと、1127年に首都・開封を攻略し、皇帝の欽宗をはじめとする多くの皇族を北方へ連行し、北宋は滅亡した(靖康の変)。
皇女たちの運命は悲惨で、売春施設で娼婦にさせられた女性もいた。
アニメ風に言うなら、これでシーズン1が終了だ。
中国で見た警察(たぶん)のポスター
しかし、欽宗の弟が生きていた。彼が南へ移動し、杭州で皇帝になって南宋を樹立したことで、シーズン2が始まる。
あいかわらず金は恐ろしい存在だったが、1142年に紹興の和議を結ぶと、宋と金の国境線が確定したことで宋はとりあえず平和と安定を手に入れた。しかし、金が宋の命運を握っている事実は変わらない。
金は開封を首都にしていた。南宋からしたら、かつての首都が支配されている屈辱的な状態だったが、武力で追い払うことは不可能だったから、ただ耐えるしかなった。
そんな宋にビッグチャンスが到来。
金の北方で新興勢力のモンゴル帝国が登場すると、中国大陸のパワーバランスが一変する。
モンゴルは南宋とタッグを組んで金を挟み撃ちにすることを考え、南宋へ使者を送ると、南宋の朝廷では、モンゴルと同盟関係を結ぶことにリスクなど、さまざまな議論を行った末、最終的には金の提案を受け入れることにした。
北宋を滅ぼされ、金に対する歴史的な恨みが積み重なっていて、どうしてもリベンジしたかったらしい。
金にとっては、モンゴル帝国と南宋が南北から攻めてくるという事態は、これ以上ない悪夢だったから、それを阻止するため、南宋に使者を派遣し、対モンゴルで同盟を組もうと訴えた。しかし、時すでにおすし。南宋はすでにモンゴルとの共闘を決めていたため、使者を冷たく追い払った。
トキはきた。1233年にモンゴル帝国が金の首都・開封を攻略し、金の皇帝・哀宗(あいそう)が南に逃げると、モンゴル軍と宋軍と狩りをするように追い詰め、(覚えやすい年号の)1234年に哀宗はすべてを諦めて首をつり、金は滅びた。
哀宗という名前が不幸フラグだった。
「敵の敵はマイ・フレンド」理論で共通の敵が消滅したら、友は友でなくなる。南宋にとってはモンゴル帝国がそんな存在で、大きな悩みのタネとなった。
金が消えたあと、南宋はまた欲を出して、開封をはじめとする領地の回復を目指す。しかし、これはモンゴルとの約束違反になる。南宋は失地回復という悲願で頭がいっぱいで、冷静に現実を見ることができなかったのか、モンゴル帝国をだますカタチで形軍事行動を開始した。
そうして起きた紛争(端平入洛)で、南宋軍は大惨敗し、本気になったモンゴル帝国との戦いが始まった。
そして1276年、モンゴル軍に首都・臨安を占領され、宋は滅亡した。
アニメ風に言うなら、これでシーズン2が終了だ。
しかし、臨安が陥落した際、南宋の臣下たちが皇子を連れ出し、彼を皇帝にしてモンゴルへの抵抗運動を開始した。
こうしてシーズン3が始まったが、これはすぐに打ち切りになる。1279年3月19日、南宋の残存勢力は崖山(がいざん)の戦いでモンゴル軍に敗北し、南宋は完全に消滅した。
北宋は燕雲十六州のすべてを手に入れようとして、金と同盟関係を結んで遼を滅ぼしたあとで金を裏切り、怒った金に滅ぼされた。
南宋はかつての北宋の地を手に入れようとして、モンゴルと組んで金を滅ぼしたあとでモンゴルを裏切り、怒ったモンゴルに滅ぼされた。
「バカは死ななきゃ治らない」と言うけれど、宋は一度死んだ(滅亡)したのに、それでも治らなかった。この学習能力のなさは絶望的だ。同じ失敗を同じように繰り返したのだから、北宋と南宋を一言で表すなら「救いようがないバカ」になる。
コメント
コメント一覧 (2件)
> 「バカは死ななきゃ治らない」と言うけれど、宋は一度死んだ(滅亡)したのに、それでも治らなかった。この学習能力のなさは絶望的だ。同じ失敗を同じように繰り返したのだから、北宋と南宋を一言で表すなら「救いようがないバカ」になる。
彼らは「救いようがないバカ」だと、そうなのですかねぇ・・・。
私には、「何とかして」自分たち一族を存続させようと必死になった彼らの「あがき」が、むしろ「頑張ったんだな」と思えるのですが。だって当時は、もし戦に負ければ、
> 金の大軍が怒とうの勢いで宋へ攻め込むと、1127年に首都・開封を攻略し、皇帝の欽宗をはじめとする多くの皇族を北方へ連行し、北宋は滅亡した(靖康の変)。
> 皇女たちの運命は悲惨で、売春施設で娼婦にさせられた女性もいた。
なんですよ。日本を占領した米軍なんかとは違う。大平洋戦争中の沖縄戦の悲惨さは、まさにその理解の祖語が元になって、多くの女性たちが崖から身を投げたのでしょう。
事実は事実として、現代社会に生きている我々には決して理解できない状況があったのでしょうね。
同じように神風特別攻撃隊に志願して戦死したなんて、それは現代の価値からすれば「無駄死に」としか評価できないのでしょうけど、でもそれだけじゃなぁ・・・。私の叔父が南方戦線で病死したことも、いま私がこの世で生きていられる理由の一つではあるとは思います。
一族の存続を第一に考えたら、失地回復というメンツにこだわらなかったと思います。
すべてが終わった後なら何とでも言えますが。