日清戦争の後、日本と中国の関係はどうなった?
日清戦争の結果、両国の明暗はこれ以上ないほど残酷に分かれた。
日本は清から多額の賠償金を得て、それをもとに経済を活性化し、軍事を拡張させてよりパワフルな国となった。
その結果が日露戦争(1904〜1905年)の勝利につながる。
また、この時代、戦争に勝つことで国際的に力を認められていたから、欧米列強は「お、やるじゃん!」と日本を見直した。
日本の地位は向上し、悲願だった不平等条約の改正(領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復)が一気に進んだ。
いっぽう、日本の「踏み台」となった清は悲惨だった。
巨額の賠償金を払わなければならず、租借地という形で重要な土地を西洋諸国に奪われた。
列強は「眠れる獅子」と清の潜在能力を恐れていたが、それは過大評価だったことが分かり、清の領土を部分的に奪い、清を半植民地の状態にした。
ここまでは歴史の授業で習ったと思う。
では、このあと、日本と中国の関係はどうなったのか?
当然、清は日本に対して怒り心頭に発し、絶対に許すことはできなかった。
不倶戴天(ふぐたいてん)の敵、同じ空の下では生きていけない相手と思うほど、大きな憎しみや恨みを持っていた。
と思われるが、意外にも日中はすぐに「仲良し」になったのだ。
日清戦争の後、日本と中国(清)はそのまま対立し続けたわけではない。
むしろ、日本では中国との関係を見直し、改善しようとする動きが生まれていた。
ただし、この流れは長く続かなかった。
一時的なもので終わってしまう。
なぜ、そんな残念なことになってしまったのか。

日清戦争で小さな日本人が清という巨人を倒した。
なぜ戦争の直後に“和解ムード”が生まれたのか
対立が頂点に達して戦争に発展したが、結果的にそれがお互いを知るきっかけになり、仲良くなった。
薩英戦争がまさにそんな感じだった。

結論からいうと、日本と清が近づいた原因は国際情勢の変化にあった。
日清戦争で勝利した日本は、遼東半島を手に入れたが、「まった!」をかけた国がある。
その直後、ロシア・ドイツ・フランスの3国が圧力をかけたことで、日本はせっかく手に入れた土地を清に返還させられた。
この「三国干渉」によって日本は警戒すべき相手、本当の脅威は中国ではなく、列強であることを感じた。
特に強く意識されたのが、南に進出してきたロシア帝国の存在だった。
こうして国際環境の中で、日本では中国に対する見方が変わり、「もはや中国は倒すべき敵ではない。むしろ関係を安定させるべき相手だ」と思うようになる。
西洋列強が日本に勧告をしたのは、ボランティアでも清のためでもない。自分たちが「美味しいところ」を得るためだ。
三国干渉以降、列強はお互いの利益をもとに話し合い、本格的な「中国分割」を開始。
ドイツは膠州湾、ロシアは旅順・大連を手に入れ、イギリスやフランスも重要な土地を手に入れた。
こうした租借地のほかに、列強は鉄道敷設権などの権益も手に入れた。
つまり、日本と清は「相手と友好関係を築きたい」ではなく、西洋列強が共通の敵となったから、「仲良くする必要」が生じたのだ。
歴史を見ると、「敵の敵はマイフレンド」という法則がよく発動する。
「支那人親しむ可し」とは
こうした流れの中で登場したのが、「支那人親しむ可し」という考え方だ。
これは、1898年(明治31年)に『時事新報』に掲載された社説で、執筆したのは福澤諭吉とされているが、正確には分からない。
ちなみに、「支那(しな)」は中国をさす。現代では侮辱語になるから、テレビや新聞では絶対に使えない。
清では、西洋への警戒心や主権を失う危機感が高まった。それが日本に対する恨みを上回り、清は日本に笑顔を見せるようになる。
日本に対して友好的になり、150名の留学生を日本に派遣し、日本について学ばせた。
日本でも「これを機会に清と仲良くするべきだ」というムードが高まり、「支那人親しむ可し」が世に出された。
その中で、福澤諭吉と思われる執筆者は次のように訴えた。
「今は状況が変わり、貿易をして日本と中国のお互いが利益をあげる必要がある。そのためには日本人は清国人に近づき、互に親しむことが重要だ。
日本人が中国人を『チャンチャン』とか『豚尾漢』などと侮辱するのは絶対にいけない。清国人と仲良くなることの重要性を認識して、官民ともに清国人と接する必要がある。」
「支那人親しむ可し」が出た時点で、日中はもうお互いの憎しみを乗り越えた。
かつての「強敵」は「トモ」になったのだ。
列強の圧力が強まっている中で、中国(日本)と対立しても利益が少ない。むしろ関係を安定させたほうが有利なのは明白。
そんな事情から、お互いが「自分ファースト」で考えた結果、利害が一致したから手を結ぶことにした。
「心からの友人になりたかった」というお花畑的な発想ではなく、現実的な外交判断だ。

日本を中心とする八カ国連合軍
義和団の乱と八カ国連合軍:再び崩壊した日中関係
こうして、日清戦争後、すぐに日中関係は改善に向かった。
しかし、その蜜月関係は長く続かなかった。
日本が仲良くしたかったのは「近代化を目指す改革派の中国人」だ。
しかし、大きな中国には色々な考え方があり、さまざまな立場の人がいた。
1900年に、「扶清滅洋」をスローガンとする義和団の乱が発生。
これは「清を助け(扶清)、外国を打ち払う(滅洋)」という意味の排外主義的な暴動で、彼らは西洋人の神父を殺害し、教会を破壊するなど西洋列強を敵視した。
清朝政府の最高実力者・西太后は義和団への支持を表明し、欧米列国に宣戦布告したことから、これは国家間の戦争に発展した。
日本もこの暴風雨に巻き込まれ、北京にいた外交官の「杉山彬(あきら)」が清の兵士に命を奪われた。
欧米諸国と日本は北京にいた公使館員や居留民を守るため、「八カ国連合軍」を結成し、北京に進出することを決めた。
しかし、欧米の軍隊が到着するまでには時間がかかるため、当面の間は、日本軍が彼らの命を預かることとなった。
日本は欧米の期待以上の活躍を見せ、民間人を懸命に保護し、後に欧米列強から感謝された。
このときの日本人の規律正しさは海外で高く評価され、ロンドン・タイムスは社説でこう絶賛する。
「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない」
特に、柴五郎のすばらしいリーダーシップは各国の賞賛の的となり、義和団を鎮圧した後、彼はイギリスのビクトリア女王から勲章を授与された。
こうした日本の貢献が「日英同盟(1902年)」へとつながっていく。

日清戦争の後、日本と中国のあいだで「友情」が生まれたが、それはすぐに吹き飛んだ。
両国とも、「外国の侵略から主権を守り、自国を強くする」という目的では一致していたが、その方法は違っていた。
国際情勢が変化するにしたがって、大きなズレが生まれ、ついには決定的な「不和」となる。
それにしても、「支那人親しむ可し」が出てからわずか2年後に崩壊するのは早すぎる。それだけ、当時は激動の時代だったということか。
義和団の乱の後、日本と中国の関係や地位はどうなった?
義和団の乱の後、日本は欧米列強に認められ、その「一員」となった。
いっぽう、落ち目だった清はさらに落ちぶれた。
巨額の賠償金の支払いや、北京や天津に外国の軍隊が駐留することを認めさせられ、清朝は「半植民地」と言える屈辱的な状態になってしまった。
日清戦争の後、日中の明暗はハッキリと分かれた。
義和団の乱の後、その差はさらに広がってしまった。

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